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永遠の命 / 「シンドラーのリスト」

プレイボーイのドイツ系実業家、オスカー・シンドラーがクラクフの琺瑯の工場を買収したとき、まさか自分の名前がほぼ永遠に歴史に残ることになるとは夢にも思っていなかっただろう。ユダヤ人たちを安価な労働力として雇用し、親衛隊やゲシュタポの査察をうまくかわし、やがてシンドラーはユダヤ人たちが強制収容所へ行かずに済むよう行動し始めるのだった。
1993年の映画「シンドラーのリスト」はホロコーストを扱った作品の最高傑作と呼ばれ、それまでドタバタ映画しか撮れないと思われていたスティーヴン・スピルバーグ監督の面目躍如となった。こういう大きな歴史の事件を取り上げる場合、小さなところをじっと見つめると良い結果を生みやすいのだが、「シンドラーのリスト」はまさにその手法が成功した例である。シンドラーより多くのユダヤ人を救った者は杉原千畝をはじめ各国に多く存在するが、映画というメディアによる"伝わりやすさ"は小説などの比ではない。
さて、ポルデク・プフェファーベルクという名のユダヤ系ポーランド人がクラクフで高校教師をしていた。ポルデクはポーランドがナチス・ドイツに侵略されると、琺瑯工場を経営しはじめたシンドラーと知り合い、母親はシンドラーに雇われ、本人はシンドラーが闇市で物品を売買することを手伝っていた。やがてポルデクも工場で雇われるようになり、"シンドラーのリスト"によって命が助かった。1950年、ポルデクは妻と共にアメリカへ移住し、ビバリーヒルズで革製品の店を始めた。
時は流れて1980年。オーストラリアの作家トーマス・キニーリーがポルデクの店にやってきて、ブリーフケースの値段を訊ねた。話しはじめたトーマスが作家だということが分かると、ポルデクはシンドラーに関する資料をあのリストも含めて見せた。トーマスが興味を持つとポルデクはやがてポーランドの国内の施設も案内してやり、1982年に出版されたトーマスの著書「シンドラーの箱舟」(原題は Schindler's Ark)のアドバイザーとなった。ブッカー賞を受賞した本作はポルデクに捧げられている。どうしてこんなにシンドラーのことについて助けてくれるんですか、とトーマスがポルデクに訊くと、ポルデクは答えた。
"シンドラーは私に人生をくれた、だから私はシンドラーに永遠の命をあげたい"
「シンドラーの箱舟」が出版されると、次にポルデクはスピルバーグ監督の事務所に連絡を取った。ポルデクはスピルバーグ監督の母親と知り合いだったのだ。それから11年間、毎週のようにスピルバーグ監督の事務所に電話をかけたという。1992年にスピルバーグが監督することを引き受けるとポルデクは映画のアドバイザーとなった。「シンドラーのリスト」として完成した映画がアカデミー賞で数々の賞を受賞した夜、ポルデクと妻は会場にゲストとして招待されていた。
さて、こうした映画化に至る過程もまた映画のようだと思う。事実はフィクションより奇なり、である。もちろん、ポルデクによって誇張された部分もあるだろうし、言わなかったことも多数あるだろう。だが、それが歴史である。「ポルデクの選択」なのだ。我々観客はこのストーリーから何かを得て、後の人生の糧にしていく。それが小説や映画というメディアの力だ。
助けられた者によってシンドラーは永遠に刻まれる名誉を得た。外務省は杉原千畝を訓名違反により事実上の免職とし、20世紀末まで名誉回復にも反対し続けた。

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