欲望する大人のためのアラジン / 「ヘルレイザー」
ラブストーリーが愛を描くように、ホラー映画と呼ばれるジャンルは観客に恐怖や焦燥感をサービスする。これらの感情は性の興奮、特に女の快感と非常に近しい、とされているからだ。僕は男だから、ハッキリと分かって書いている訳ではない。しかし全米の統計により、ホラー映画の観客は他のジャンルに比べて女の割合が有意に高いことが判明している。お化け屋敷や絶叫マシーンで「キャー」と叫ぶ女は疑似セックスをしているようなものだろう。
さて、1987年の映画「ヘルレイザー」はこういう性への欲望を婉曲に表現したホラー映画である。別にセックスのシーンがある訳でもなく、グロテスクに人体が飛び散るわけでもない。パズルの箱があり、それが性の快楽を極大にするという、エロい「アラジン」である。その象徴としてセノバイト(Cenobites)と呼ばれる魔導士が出てきて、そのうちのリーダーは頭部にピンがたくさん刺さっており、苦痛と快感は合一であるというマゾの夢みたいなことを語る。いわば精神のAVみたいなものだ。
こういう表現はあからさまなAVよりも観客の想像力次第でどうにでも解釈できるし、観にくる客にとっても「ホラー映画を観にきたの、これホラーでしょ」という姿勢でいられるので映画館も公開しやすい。20世紀にスマホはないのだから、映画が動画サイトの役割も担っていた。
最近で言えば「テリファー」や「ハロウィン」シリーズは、頭のおかしい犯人が襲ってくるというきわめて単細胞なストーリーなのでヒットしやすい。「悪魔のいけにえ」のように世の中を批判する意図もない。あからさまな、つまり映像と音声によって分かりやすい"恐怖"をサービスしているものだ。
それに対してヘルレイザーのシリーズは、そうした分かりやすさが無い。恐怖というよりも性への"欲"が物語を動かしている。これはホラー映画ではなく、欲望映画と呼んだ方が適切だろう。
「ドラゴンタトゥーの女」があれだけウケた理由は、サスペンス映画のフリをしながらマゾのシーンがあるように宣伝などの映像を編集していたからだった。実際にそうしたシーンは劇中でわずかしかないことがバレたので、第2作目はひどい興行収入となった。
そもそも、なにか物語を語れば、そのなかに恐怖や焦燥感を感じるものも少なくないのだから、わざわざそうした要素だけを取り出して"ホラー映画"というジャンルに仕立て上げている時点でお仕着せと言える。脚本家によってコントロールされた恐怖なんて本来チャチなものだ。そういう意味で、なにか訳の分からないことがスクリーンのなかで始まっているという「ヘルレイザー」の方がこちらの想像力をかき立てるエンターテイメントである。