ドナルド・トランプのお気に入り / 「サンセット大通り」
ドナルド・トランプ前大統領がお気に入りの一作で、在任中にホワイトハウスの中にあるファミリーシアターで何度も上映した作品といえば、ビリー・ワイルダー監督の1950年の映画「サンセット大通り」だ。この映画が好きだなんて、センスある男だなァと思う。デヴィッド・リンチ監督も本作がお気に入りであり、2001年の映画「マルホランド・ドライブ」は「サンセット大通り」を下敷きにして撮影されたオマージュでもある。また、ロバート・アルトマン監督の1992年の映画「ザ・プレイヤー」は、「サンセット大通り」のアルトマン風リメイクと言っていい作品だ。
さて、物語の主人公にして語り手のジョー(ウィリアム・ホールデン)は売れない脚本家であり、取り立てに来た男たちから逃げ出し、サンセット大通り沿いに建つ豪邸に転がり込む。そこはサイレント映画の頃の大女優、ノーマ・デズモンド(グロリア・スワンソン)の邸宅だった。ノーマは今でも自分は大人気のスターなのだと思い込み、書き溜めている「サロメ」の物語で映画に復帰するつもりだと語る。そして脚本を手直ししてくれたら大金を支払うというノーマの提案にジョーは渋々応じる。ノーマからいろんなものを買い与えられ、優雅なゴーストライターとしての生活に慣れてきたジョーだったが、やがて脚本家になることを夢見るベティに恋をする。ベティの存在に気付いたノーマは正気を失っていくのだったーー。
セシル・B・デミル監督やバスター・キートンなど、映画の草創期の著名人たちが本人として出演していることで有名な作品だが、この"本人"という役は、実はとても深い意味を持っている。
たとえば、ウィリアム・ホールデンという俳優は、ジョー・ギリスという役を演じている。観客にとってスクリーンの中に映る男はジョーであり、同時にウィリアム・ホールデンである。ところが、デミル監督は"デミル監督"という役を演じているのだから、スクリーンの中に映っている人物はデミル本人だろうか。きっとデミル本人はそれをイメージに過ぎないと言うだろう。カメラに映る"トランプ"を演じてきたトランプ前大統領にしてみれば、こうした本人とスクリーンの中の人物の差が面白いのかもしれない。
こうした俳優と登場人物の差を狭めていくと、ノーマ・デズモンドとグロリア・スワンソンの関係になる。すなわち、サイレント時代にスターだったものの落ち目の女優ノーマとは、他ならぬ当時のグロリア・スワンソンのことでもあるからだ。グロリア・スワンソンはとても気さくで性格の良い女優だったらしく、ワイルダー監督も役をオファーしたもののまさか引き受けてくれるとは夢にも思わず、腰を抜かしたという。この映画を劇場で観た人たちは、グロリアが本人のような役をしている、と大喜びしたに違いない。
このように、スクリーンあるいはテレビ画面の中に映るものは"演技"がほとんどであるならば、では我々は目の前の人を相手に演技していないのだろうか。何かを"演じる"ということは、実は人間の本質そのものなのだ。
さて、かなり話が脱線したが、「サンセット大通り」はノーマがその脚本を手がけていたように、「サロメ」の物語のリメイクである。再び映画スターになるんだというノーマの夢は、映画のラストにおいて全く異なる意味で実現するのだが、そのことに本人だけが気付いていない。このように、現実を自分勝手に解釈している人は実は珍しくない。世の中を認知する能力に欠ける者が、えてして他人に迷惑をかけている。
アメリカ映画を代表する傑作である。