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時の過ぎゆくままに / 「長江哀歌」

たまに度肝を抜かれるような映画に出会うことがある。賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の2006年の映画「長江哀歌」はそんな作品だ。この映画は、あらすじを見せるための108分ではなく、いわゆるアートである。
三峡ダムによって水没していく街、奉節県が舞台だ。山西省からやってきたサンミン(韓三明)は、16年前に別れた妻と娘を探している。また一方、シェンホンという女(趙濤)もまた山西省から、約2年も音信不通の夫グォビンを探しにやってくる。物語はこの2人がそれぞれの配偶者を捜索する姿と、奉節県での暮らしをじっと撮っている。あらすじを書けば、ただそれだけの話である。
この映画が表現していることはいくつかあるが、なかでも大きなテーマは時の流れだ。奉節県にある白帝城を李白が詠った漢詩「早発白帝城」が観光船のシーンでアナウンスされていたが、そのなかの「軽舟已過万重山」すなわち長江を行く小舟がスイスイと進むように、時があっという間に経ってしまうことを描いている。
サンミンは16年もの歳月を独身で過ごしながら、しかし娘に会いたいという気持ちだけが色褪せていない。シェンホンは夫が2年も音信不通であることに腹を立てている。サンミンにすれば、1年も16年も気持ちの上で変わることはなかっただろうし、シェンホンにすれば音信不通の2年という歳月は離婚を切り出すために十分な時だった。そうしたそれぞれの、軽舟のように過ぎた時が、三峡ダムによって沈む街で交錯する。
賈樟柯監督はそうした"時"の感覚を観客に伝えようと、登場人物たちの会話をあえてゆっくりさせた。黙ってタバコを吸ったり、食事をしたり、静かに過ぎていくシーンの奥では、古びた建物が取り壊されている。こうした何気ない日常の風景を観客に印象づけるために、シュールといってもいいような無言の時間が多用される。
こうした手法は異化効果と呼ばれるもので、劇作家のブレヒトが造語として使用して広まったものだが、しかしこうした"人は物事をどのように見ているか"という問題意識そのものはアリストテレスの頃でも存在していた。たとえば、川を見ても人は「川だよ」と即答するが、どのような流れで、どのような匂いで、どのような色なのか、そういったことは省略されてしまっている。異化効果なんてヘンテコな単語だが、要するにこの世界を省略せずに見てみようという試みだ。どうしてブレヒトの話を持ち出したかというと、この映画の原題は「三峡好人」なのだ。この物語の舞台は奉節県すなわち四川省なのだから、これは四川好人、つまりブレヒトの戯曲 Der gute Mensch von Sezuan (四川の善人)をもじった題名である。「三峡の善人」という邦題で良いのに、なにが哀歌なのか。
さて、賈樟柯監督は四川省の美しい景色をゆっくり撮りながら、サンミンとシェンホンの物語の繋ぎ目にドッキリを仕掛けていた。UFOが飛行しているシーンと、現代的な高層ビルがロケットのように宇宙へ飛び立つシーンだ。僕はビルのシーンなんて目を疑ってしまった。度肝を抜かれるとはこのことだ。まさかこんな演出があるとは夢にも思っていなかった。こうしたシュールな光景をスクリーンのなかに映し出すことで、観客が映画に期待している物語の連続性という思い込みも笑いに変えようとしている。我々は映画も世の中も、意味がつながることだけに着目していないか、ということだ。
サンミンを奉節県で案内する役目だった登場人物は、マークである。前回の記事「男たちの挽歌」のマークに憧れているという設定の若者だ。実際に劇中でもマークがテレビで「男たちの挽歌」を見ているシーンがあった。中華圏ではマークというキャラクターの人気は絶大である。マークの最期は事故死なのか、グォビンの手下の若者たちにリンチされた結果なのか、それは判然としない。
10元紙幣の裏側にも印刷されている瞿塘峡は美しい。この景色のなかで、人は誰かを思ったり、探したり、亡くしたりしながら、食事をして生きている。香港も含めて中国の映画は本当に食事のシーンが多い。観ていると中華料理を食べたくなる。言い換えると、食事をすることが大切なのであって、食事以外の出来事はおよそ大したことではないという中国のおおらかな気質の現われでもあるのだろう。
さておき、これは名作である。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しているが、当然の結果だ。賈樟柯監督には今後も期待したい。

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