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想像力という言葉は何を表しているか / 「ウインド・リバー」
映画はもちろんエンターテイメントだが、扱っているテーマについて観客に考えてもらうことを優先し、過剰な演出やプロットを避けているものがある。先日このnoteで取り上げた「ペイン・ハスラーズ」は、オピオイド危機という重大な問題をできるだけ暗くならずに観ていられるよう配慮されていたし、インドネシアで1960年代に起きた大虐殺を扱った「アクト・オブ・キリング」はドキュメンタリー映画という形式で撮影された。
2017年の映画「ウインド・リバー」は、テイラー・シェリダン監督が「MMIWの問題について関心を持ってほしいから撮った」と明言している問題提起型の映画だ。MMIWとは「先住民の女の失踪と殺人」の頭文字である。特にアメリカとカナダを中心にした社会運動で、近頃ではオーストラリアやニュージーランドにも存在するという。
以下、これから観る方のために物語のクライマックスは書かない。
ジェレミー・レナー演じるアメリカ合衆国魚類野生生物局(FWS)のハンター、コリーが雪山でアラパホ族の少女ナタリーの遺体を発見するところから物語は始まる。なお、ワイオミング州ウインド・リバー・インディアン居留地は実在する。コリーはインディアン管理局のベンとFBIの新米捜査官ジェーンと共に捜査に”付き合う”のだが、ナタリーはレイプされていること、そして氷点下の極寒の山中を10kmも裸足で歩き、肺が出血したことによって死んだことが分かるーー。
入植者たちのネイティブ・アメリカンに対する仕打ちはこれまで映画や小説で取り上げられてきたが、これは現在進行形の問題である。「ウインド・リバー」はこのことを強調した映画だ。ネイティブ・アメリカンの土地を没収し、居留地なる所へ無理やり連れていき、インフラなど様々な点で不利な立場に留め置き、レイプや失踪に関して統計をとろうにも、記録が存在しない。
もし、この話を聞いて「白人やべえ。おれ日本人だから関係ないけど」と思う人は日本列島の歴史に無知な上に想像力もちゃんと欠けているので安心してほしい。たとえば、明治時代に蝦夷地を北海道だと勝手に決めて”開拓使”を送り込み、アイヌの土地はどこへ行ったのか。アイヌの文化、アイヌ語について今日どれだけの日本人が知っているか、そのことを考えてみれば、記録もろくに存在しないアイヌの土地で明治時代に何が起きていたか、想像に難くないはずだ。
想像力とはぼんやりした言葉だが、映画を観ていて「アメリカこわい」とか「こんな仕事むり」という感想を抱きやすい方に欠けているものだろう。つまり、どこかの国で行われていることは、ここでも起きたことがあるか、起きうることだ。また、人はその立場に置かれてみれば、銃殺する側にもされる側にも、どちらにもなりうるということだ。そういうことを歴史から学ぶべきなのだが、この国の教育は「泣くよウグイス平安京」のような暗記一辺倒の制度なので望むべくもない。
さて、アメリカやカナダでは今日でも先住民たちの高校卒業率は低く、薬物の中毒者が後を絶たないという。広大な土地に警察官が数名しかおらず、何か犯罪が起きても資料すら残らないことが大半だそうだ。世界各地で少数民族は同じような目に遭っている。若い人は知らないと思うが、僕が中学生の頃はまだ大阪のあるエリアを指して「沖縄部落」と呼んでいたし、アパートや飲食店で「沖縄人お断り」という貼り紙を何度も目にした。
「それは昔の話でしょ、私は関係ない」と言う人が歴史を繰り返すのだ。誰かがやったことは、じぶんもやりかねないーー、それが知性であり想像力だと僕は思う。文学や映画はそういうことを教えてくれているはずだ。