ふざけるなジャンプ / 「テルマ&ルイーズ」
リドリー・スコットはイギリスを代表する監督である。「エイリアン」や「ブレードランナー」のようなSF系から「グラディエーター」のような歴史モノまで、何でも器用に撮ってしまう。どのシーンをどういう風に撮りたいかというビジョンがあるのだろう。映画を手がける前はCMの監督として活躍していた人だ。
リドリーの映画なら、僕は1991年の「テルマ&ルイーズ」を推薦したい。女2人が主人公の映画として有名で、多くのレビューが既に書かれてきた。この作品は1969年の映画「明日に向って撃て!」の女バージョンである。
アメリカ南部、アーカンソー州の田舎町でウェイトレスをしているルイーズ(スーザン・サランドン)が、主婦のテルマ(ジーナ・デイヴィス)を誘ってドライブ旅行に出かける。バーで酔っ払ったテルマがレイプされかけ、ルイーズが咄嗟に男を射殺する。2人は逃走し始めるのだが、ヒッチハイクするイケメンのJ.D.(ブラッド・ピット)にテルマが惚れてしまい、J.D.に金を盗まれる。それから2人は強盗し、警察から銃を盗み、タンクローリーを爆破する。そしてついに2人の乗ったクルマはグランドキャニオンの絶壁の手前でパトカーに包囲されるーー。
「明日に向って撃て!」の原題は Butch Cassidy and the Sundance Kid であり、男の主人公2人のあだ名がタイトルになっているが、「テルマ&ルイーズ」も同様に女の主人公2人のファーストネーム Thelma & Louise である。男の映画の方は失われいくフロンティア精神がテーマだったが、本作は男が優位の社会のなかで女が抗うこと、すなわち、キリスト教徒の手本となるような生き方の否定である。
フェミニズムという考え方からこの映画を捉えることがたいへん流行したし、それは決して的外れではないのだが、そうした特定の価値から物事を把握しようとすると、どうしても断罪になってしまうきらいがある。家父長制だとか male gaze (男からの眼差し)のような、それはそれで"おっしゃる通り"なのだが、そうした物差しで映画や小説を批判すると、あたかも無敵の剣を手に入れたような気になってしまい、見落としてしまうことがあまりにも多い。
テルマとルイーズは、男からの"謂れ無き"暴力あるいは狼藉に対して"ふざけるな"という暴力で返した。こうした馬鹿野郎の頭が悪いことはもちろんだが、そもそもキリスト教における"妻は夫に服従すること"という倫理がバカを増長させるキッカケとなっていることも事実だ。このことは日本列島も似たような倫理によって運営されてきたからよくお分かりのことだと思う。また、一部の男が抱えているミソジニー(女への嫌悪感)は精神疾患に似たものだし、間違いなくホモに多く見られる。
つまり「テルマ&ルイーズ」に対して家父長制だのフェミニズムだの、そういう大雑把な概念を押し付けるのではなく、"伝統でも宗教でも犯罪でも、ふざけたことを私にするんじゃない"という叫びとして捉えた方が良い。なぜなら、伝統も宗教も、だいたいふざけたことを人に押し付けてくるからだ。そうした強制力に対して従順であれば善良な市民となる。テルマとルイーズはそれを拒否したまでだ。
ブッチとサンダンス・キッドは追い詰められて「オーストラリアへ行こう」と言って飛び出して行ったが、テルマとルイーズはグランドキャニオンでの大ジャンプを選んだ。これが、テルマとルイーズを囲むバカげた、"女を抑圧する社会"へのFUCKである。男社会という言い回しは決して正確ではない。なぜなら、有史以来ほとんどの文明はどちらかといえば男社会だからであり、lady を gentleman が大切にするという"どちらかといえば少し男が優位"の文化は、大多数の女が受け入れているはずだ。問題は、女を不当に抑圧することだ。
リドリー・スコットは本作の脚本を読んで、是非撮りたいと製作まで引き受けた。リドリーの母親がとても強い女だったので、その影響があるかもしれないという。面白いのは、この映画は制作前の段階でゴタゴタし、本来主演するはずだった2人の女優がスケジュールの都合で降板しているのだが、それがミシェル・ファイファーとジョディ・フォスターだったのだ。この2人だったらどんな「テルマ&ルイーズ」になったのだろうと考えてしまう。