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変わり行くジェンダーのなかで / 「オール・アバウト・マイ・マザー」

僕はよく劇中劇について話をしているので、劇中劇を扱っているこの映画の記事もまた劇中劇として、今回はすだちくんではなく"かぼすくん"に書いてもらうことにする。かぼすくんのプロフィールは、大学で映画研究会に入って学術書を数冊読んだだけですっかりインテリ気分になり、映画批評ブログを開設してしまうような奴、である。すだちのように凝縮された味ではなく、水っぽいスカスカの、かぼすのような文章を堪能していただきたい。

かぼすくんです、皆様はじめまして。今回に限って、すだちくんに代わって記事を書かせていただきます。

・「オール・アバウト・マイ・マザー」(1999年)
ペドロ・アルモドヴァル監督

まず、この映画について2点指摘したい。
第1に、本作の原題 Todo sobre mi madre (英訳は All About My Mother)は、「イヴの総て」(All About Eve)からの写像として機能している。このような間テクスト性が冒頭から視聴者に提示され、僕たちは作中作の只中に投げ込まれる。ここで留意しておきたいことは、主人公マヌエラが息子のエステバンを連れて舞台を観に行くことである。まさにウロボロス的物語と言って良い。舞台は「欲望という名の電車」であり、この作品が小児性愛や強姦など本作に通じるアクチュアリテを保持していることは見逃せない。
第2に、この映画には不在がある。それは父親の不在であり、すなわち男根に表象されているマッチョイズム=家父長制の不在である。この不=在という様式を通して、近年のフェミニズムにおける議論に接続されうるような、エディプス期あるいはファルスへの眼差しが投げかけられている。ここには性=生=聖としての連関があることは指摘しておいてよい。

すだちくんが、笑ってしまうからもういい、と仰るので、以上とさせていただきます。こちら「オール・アバウト・マイ・マザー」の記事になります。

さて、それでは、今この文章を書いているのは誰だろう。すだちくんだろうか、それとも、すだちくんになりすましたかぼすくんだろうか。あるいは、そのどちらも実在しない作者であり、これはただのAIではないだろうか。劇中劇とはこのように、作者と物語という境界を曖昧にする。もっと正確に言えば、作者というものが劇と劇の途上で消えてしまう。ちょうど、すだちくん/かぼすくんの区別が不可能であることに等しい。
「オール・アバウト・マイ・マザー」は性転換やエイズ、いわゆるジェンダーの問題など、現代の"性"にまつわる挿話を詰め込んだような物語でありつつ、かぼすくんが書いたように、冒頭から「イヴの総て」を親子で視聴している。また、本作と同じく"性"に潜む暴力を赤裸々に描いた「欲望という名の電車」も観に行く。アルモドヴァル監督はあえてこうして先行する性の物語を分かりやすく引用することで、今日における性/セックス/ジェンダーは以前と何が異なるのか、すなわち、それらは時とともに変化するものではないかと観客に問いかけている。
もちろんホモやオカマなどの言葉狩りがあったものの、今日では性転換や女装男に対する世間の見方はかなり緩やかになっただろう。価値観が変容している。アルモドヴァル監督自身がホモらしいので、こうした変化には敏感に気付くはずだ。
アルモドヴァル監督の作品でありつつ、この引用の映画のなかで作者の輪郭は失われていき、"これはあなたたち1人1人の物語ですよ"と伝える構造になっている。なかなかのテクニシャンである。
以上、かぼすくんでした。

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