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オスの魔法使い / 「ワイルド・アット・ハート」

This whole world's wild at heart and weird on top.
(この世の中ぜんぶ、心は自然のままなのに、頭が変なの)

Lula, "Wild at Heart"

つい先日、1984年にパルムドールを受賞したロードムービーの傑作「パリ、テキサス」について書いたが、同じくロードムービーで1990年にパルムドールに輝いた映画がデヴィッド・リンチ監督の「ワイルド・アット・ハート」だ。
リンチ監督はいわゆる芸術家なので、どの作品もまるで実験のような映像と展開に満ちている。「ワイルド・アット・ハート」もまた、ポップコーン気分で観ていると置いていかれてしまうような多くの魅力がある。2001年の「マルホランド・ドライブ」では夢と現を同じものとして撮っていたが、「ワイルド・アット・ハート」は現実のなかに夢を出現させるような手法をとっている。

物語はノースカロライナ州のケープ・フィアーから始まる。この地は1962年の映画「恐怖の岬」とそのリメイク「ケープ・フィアー」(1991年)で有名になったところだ。恨みの話である。「ワイルド・アット・ハート」では、主人公のセイラー(ニコラス・ケイジ)が恋人ルーラ(ローラ・ダーン)の母親マリエッタからのセックスの誘いを断ったことによる"恨み"によって、ストーリーが展開し始める。殺し屋を差し向けられたセイラーは男を殺してしまい、しばらく服役する。
出所したセイラーは執行猶予を無視し、ルーラを連れてカリフォルニアを目指しクルマで旅立つ。娘の交際に反対するマリエッタは私立探偵ジョニー(ハリー・ディーン・スタントン)と同時に、殺し屋のサントスも雇う。
テキサス州に辿り着いた2人はそこでボビー(ウィレム・デフォー)という元海兵隊の犯罪者に出会う。ボビーに誘われて2500ドルずつ分け合う約束で強盗をはたらくのだが、ボビーは保安官に撃たれ、自らの頭をショットガンで撃ち抜く。セイラーは再び服役し、妊娠していたルーラは息子を出産する。
数年後、出所したセイラーは、再会に反対する母親の電話を切って駆け付けたルーラと息子と出会うのだが、自分はいない方がいいと告げて立ち去る。すぐにギャングに囲まれて殴られ、意識を失うのだが、そこでセイラーは"良い魔女"の幻影を見る。愛から逃げてはダメ、と語る良い魔女の言葉で悟ったセイラーは立ち上がり、ルーラのクルマまで走って追いかける。その頃、ルーラの自宅にある母マリエッタの写真から本人の顔が消える。セイラーはルーラに追いついて抱きしめるとラブ・ミー・テンダーを歌うのだったーー。
まず、この話はイカレた母親マリエッタが全ての引き金になっている。女の狂気がテーマである。「マルホランド・ドライブ」など他の作品をみてもリンチ監督は狂った女を扱うことが好きなのだろう。娘に過干渉になる様など、明らかに頭の悪い人物として描いていて、マリエッタが"悪い魔女"であることは明白だろう。ちなみに、僕もこれまで生きてきて、頭の悪い女ほど子どもに過干渉であることは間違いないと思う。
さて、このように本作は、世界で最も有名なロードムービーこと「オズの魔法使い」を土台にして作られている。劇中で何度も語られる"虹の向こう"は、ルーラにとっての幸せである。ところが、セイラーとの逃避行が黄色いレンガの道(yellow brick road)ではなくなっているのではないかと不安に苛まれていく。黄色いレンガの道とは、オズの住むエメラルドの都に至る道だ。
つまり、悪い魔女に囚われているルーラを、良い魔女を夢に見て改心したセイラーが助け出し、虹の向こうに連れていくというハッピーエンドだ。私立探偵ジョニーや殺し屋サントス、犯罪者ボビーなどは、旅の伴侶というより障害となった。
母親マリエッタは、娘を愛しているなら好きにさせればいいものを、その恋人に肉体関係を迫ったり、殺し屋を雇ったり、変(weird)である。雇った私立探偵や殺し屋との関係も変だし、電話口で叫ぶ様は完全にキチガイとして撮られている。
セイラーはルーラを愛しているのだが、ボビーに誘われるまま強盗をはたらいたり、人生に迷いがあった。二度も服役して、さらにギャングに殴られたことでようやく良い魔女に"出会う"ことができた。すなわち、愛という heart に従って生きるということだ。頭で余計なことを考えても weird になるだけだと気付いたのだ。
本作で私立探偵ジョニーを演じたハリー・ディーン・スタントンは、「パリ、テキサス」で主人公トラヴィスを演じている。犯罪者ボビー役のウィレム・デフォーはこの直前のnoteに書いた「ミシシッピー・バーニング」に出演している。映画俳優とは多いようで実は少ない。もっと正確に言えば、名作に出演できるような力のある俳優は数少ないということだ。
映像のなかに魔女のイメージを重ねたり、何度も炎のイメージを挿入したり、リンチ監督らしい演出が散りばめられている。写真から母親が消えてしまうなど、どこまで現なのか判然としないことも含めて、いかにもリンチ、な一作である。

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