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余計なことばかり広告されるから / 「ファイト・クラブ」
おそらく最も才能に恵まれたミュージシャンの1人だったプリンスには「1999」という名曲がある。ミレニアム・イヤーを迎えるに当たって、1999という曲が歌っていたような終末の気分よりも、世界では閉塞感の方が優っていた。何かが始まるような予感はなかった。1999年とは、第二次世界大戦が終結してから54年後である。つまり、戦後に大量に産まれた世代が社会の上に蓋のようにのしかかり、僕のような Generation X(X世代)たちは世の中の変革を期待できなかった。
日本は敗戦してからセックスばかりして団塊の世代という異常な人口を抱えて国家が崩壊したが、アメリカではベビーブーマーと Gen X はあまり人口に差がなく、現在でもそれぞれ人口の約2割を占めている。映画はこうした世相を反映する。デヴィッド・フィンチャー監督の1999年の映画「ファイト・クラブ」は、まさに Gen X の抱える閉塞感と、それを打破したい気持ちが表れていた。
主人公である語り手(エドワード・ノートン)は、IKEAの家具やカルバン・クラインなどに囲まれ、どんどん巨大化する広告の虜のような生活をしている。劇中でもそれらの商品がスタイリッシュに撮影されている。まだスマホは無かったものの、VHSやコンピュータの普及によって商品のCMやミュージックビデオがどんどんカッコよくなっていた。リドリー・スコット監督はCMで名を揚げて映画監督になり、デヴィッド・フィンチャー監督もミュージックビデオで成功した男だ。
語り手の不眠症とは、こうした映像の氾濫、押し寄せる情報に疲れ切ったことの表れだ。こうした世の中を打破したいという欲求がタイラー(ブラッド・ピット)という別人格、オルター・エゴ(alter ego)として出現する。このことは二重人格のような、「ジキル博士とハイド氏」の方向から眺めるべきではなく、ニーチェの語る"超人"のような表現だと捉えた方が良い。語り手のような生き方を強いられている多くの Gen X たちに、抜かれた牙をもう一度生やしていこう、という意思表明こそがファイト・クラブだ。だから本作をマッチョだなんて指摘しても意味がない。男の裸が頻出する映画なのは筋書きの都合であり、これは商品やディスプレイからの解放を得ようとする物語だ。語り手が男だったからファイト・クラブになっただけの話であり、もし女であれば同年に公開された「アメリカン・ビューティー」に登場する若い女たちを思い出せば良い。男であれ女であれ、それまでの価値観を壊したいという欲求、あるいはシニカルな性格の強い世代が Gen X である。イーロン・マスクが好例だろう。
最後に街を吹き飛ばしながらそれを眺めている語り手の姿は、広告も商品も本来は必要ないものばかりだということを暗示している。良いラストシーンだ。映画も非常にテンポ良く進み、139分という長さを感じさせないあたりはフィンチャー監督の手腕である。こういう映画はもっと評価されて然るべきだろう。
蛇足になるが、1999年に公開された映画をいくつか挙げてみる。「ボーイズ・ドント・クライ」「スリーピー・ホロウ」「マトリックス」「インサイダー」「サイダーハウス・ルール」「シックス・センス」「マルコヴィッチの穴」「ストレイト・ストーリー」「リプリー」「グリーンマイル」「マグノリア」などだ。25年前、映画の世界はこんなにも充実していた。