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誰がために官憲やメディアは存する / 「狼たちの午後」

映画や小説を評するときに、日本列島には"社会派"という言葉がある。英語など欧米の言葉には対応する単語がないはずだ。なぜ、こんな言葉が日本で当たり前のように流通するかといえば、政治あるいは世間の仕組みに言及しない方が良いという透明の圧力に常に気圧されているからだ。
学生の頃からずっと、議論することから逃げるように、ハイと返事をすることだけを教えこまれ、政治なんて遠い世界のことのように感じる国民を大量生産してきたのだから、少しでも政治に触れるような映画は"社会派"と呼ばれることになる。教育制度とは、政府が国民に対して行う最初の洗脳でもある。
また、海外を旅して現地の人と話す機会を持つ国民が少ないので、日本人は自分たちが世界でトップクラスの"政治的でない"国民であることを知らない。それゆえ、政治的ではないということは、この統治を補完する勢力であることと同義であることにも気付いていない。
さて、アメリカを代表する名優アル・パチーノは、1972年の映画「ゴッドファーザー」でマイケル・コルレオーネを演じて一気に注目を浴びてから、キャリア初期にいわゆる"社会派"の映画に出演して名を揚げた。当時の映画界が New Hollywood で盛り上がっていたことが追い風になり、世の中の問題を取り上げることの多いシドニー・ルメット監督の作品に続けて主演した。
「ゴッドファーザー」の翌年、警察の汚職を描いた「セルピコ」でパチーノは主役のフランク・セルピコを演じた。そして1975年に主演した映画「狼たちの午後」は、銀行強盗の物語でありつつ、警察やメディアの横暴を批判するものだった。
この映画は、1971年に発生したアッティカ刑務所での暴動が下敷きになっている。半数以上の囚人が黒人かプエルトリコ人だったのだが、州軍と看守はこれを銃の乱射によって鎮圧し、数十人が無抵抗のまま命を落とした。
映画ではソニー(アル・パチーノ)とサル(ジョン・カザール)の銀行強盗はあっさり失敗し、警察に銀行を包囲されてしまうのだが、そこでソニーは集まった群衆たちに Attica! Attica! と叫び、みんなで警察たちを萎縮させるというシーンが描かれた。誰も傷つけておらず、そのまま出ていけば強盗未遂で済むソニーとサルのプライバシーは駆けつけたメディアによって勝手に公開され、警察は今にもソニーとサルを蜂の巣にしそうな勢いで銃を構えている。メディアや警察という大きな権力が国民の守られるべきものを破壊しているという批判である。
このことは、世界中から笑いものになっている司法制度、特に刑事司法を運営している日本人が特に考えるべきことなのだが、この記事のはじめに書いたように、日本人は"政治的でない"のだから、何が問題なのかすら分かっていないし、気にもしていない。政治的でないということは、このように、すぐそこにいつも転がっている"問題"が放置されたままになる。
「ゴッドファーザー」でドン・コルレオーネを演じたマーロン・ブランドは、公民権運動やネイティヴ・アメリカンたちの権利の保護に熱心にかかわり、ドンの演技で主演男優賞を獲得したものの、映画界での人種差別に抗議して受賞を拒否した。人は誰もが"社会派"であるはずなのだ。だからそんな単語がはじめからないのだ。
僕は社会派なんて気持ちの悪い日本語を使うことはない。
どんな単語を使っているか、それによってその人物のおよその知性は分かる。
余談になるが、本作の原題は Dog Day Afternoon である。「真夏の午後」だ。

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