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語られていないことが本当のテーマ / 「捜索者」

これだけ映画の記事を書いてきて、未だにジョン・フォード監督の作品をとりあげていないということは、僕が西部劇というジャンルを"いつもモニュメント・バレーで先住民を撃ち殺している映画"だと考えていることが大きい。だからマカロニ・ウェスタンの方が好きである。しかしジョン・フォード監督の1956年の映画「捜索者」は、いわゆる"西部劇"とは一線を画す物語になっていて、高く評価したい。有名な「駅馬車」や「荒野の決闘」より本作の方がアートに近い。
この物語に静かに響き渡っている重大なことは、実は冒頭で提示されている。それは主人公であるイーサン(ジョン・ウェイン)が、8年ぶりに弟アーロンの家に帰ってきた、ということだ。南北戦争に従軍したことは本人の口から語られるものの、発行の出所が分からない金貨を持っていることから、おそらくその後のフランス・メキシコ戦争にも出征していたと思しきイーサンは、その金貨をアーロンの娘、つまりイーサンの姪にあたるデビーに渡す。そして、デビーは8才である。
ボーッと本作を観れば、先住民を差別しているイーサンが弟一家を殺され、拉致されたデビーを何年もかけて捜索し、ついにコマンチ族から奪還する話である。しかし、このイーサンの執念、復讐への執着とは、実はイーサンがデビーの父親だと考えると妙に辻褄が合う。ジョン・フォード監督も明らかにデビーの母親マーサとイーサンの親密を伝えるように撮っている。劇中では互いに何も語らないものの、8年ぶりに再会した男女の間に8才の娘がいるという設定は、"行間を読め"ということである。歴史を学ぶ上で最も重要なことは、何が語られたのかを知ることではなく、語られていないことは何か、ということに気付くことだ。
また、コマンチ族は当初、ルーシーとデビーの姉妹2人を拉致していた。しかし劇中でルーシーは死体となってイーサンに発見されるのが、そこでレイプの痕跡があったことを暗示する会話がある。先住民による白人の誘拐や、白人による先住民のレイプという事案は数え切れないほどあったわけだし、そもそも洋の東西を問わず"囚われた女"が犯されていないと考える方が不自然である。だからこそイーサンは執拗に残されたデビーの奪還に拘り続け、コマンチ族の血が入った者と暮らすことはできないと強調していたのだ。8分の1がチェロキー族の血であるマーティンの見た目を揶揄するほど、イーサンという人物は人種が混ざることへの嫌悪を露わにしている。もちろん劇中でレイプのシーンなどないのだが、これは会話と物語の背景から"察しろ"ということだ。
こうしたイーサンはいわゆる"アンチヒーロー"であり、それはテキサス・レンジャーへの勧誘を断ることだけでなく、そもそも黒いカウボーイ・ハットを被っていることにも表れている。先住民をあからさまに見下し、スカーと呼ばれる酋長の頭皮を剥ぐなど、およそ正義の味方とは程遠いイーサンの性格は、西部開拓の時代に白人はヒーローではなく侵略者であったということも示唆している。長年にわたって西部劇を撮ってきたジョン・フォード監督も、60歳を過ぎて何か心境の変化があったのかもしれない。こうした主人公の造形は、『白鯨』のエイハブ船長に通じるものがある。
観客にストーリーを見せながら、語られていないことを暗示することは難しい。これは原作者だけでなくジョン・フォード監督の手腕も褒めるべきだろう。デビーを奪還し、皆が団欒するなかでどこかへ立ち去っていくイーサンとは、おそらく"マーサという以前の恋人"を殺され、"デビーという実の娘を先住民に犯された"男だったのだ。南北戦争などを戦った1人の白人が本当に捜索しているものとは、"家族"だったという悲しい話である。

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