どうしてそんなことをしたの? / 「ジョジョ・ラビット」
ジバンシーやピエール・バルマンの服を着て1980年代のヴォーグ誌やマリ・クレール誌でモデルを務めていたクリスティン・ルーネンズは、いま作家である。大学を卒業した後も英文学の研究を続けて博士号を取得し、2008年に発表した二作目の長編小説 Caging Skies は、2019年に「ジョジョ・ラビット」として映画化された。モデル出身だけあって、映画のプレミアに女優とともに登場した時も全く引けを取らない容姿だった。「ゴーン・ガール」の原作者、ギリアン・フリンも女だし、ブッカー賞など著名な文学賞の受賞者にも女が増えてきた。良いことだ。
さて、「ジョジョ・ラビット」は一風変わった映画である。ジョジョというあだ名の10歳の少年がナチスの少年向けの団体、ドイツ少国民団(Deutsches Jungvolk)に入団するところから話が始まる。クレンツェンドルフ大尉(サム・ロックウェル)が仕切るキャンプへ出かけるものの、ジョジョは柄付き手榴弾も満足に投げられず、心の拠り所はジョジョの妄想の産物である"アドルフ"という名のヒトラー似の男(タイカ・ワイティティ監督)だけだった。劇中でアドルフは時々現れてはジョジョと話し込んだりする。ある日、ジョジョは自宅の姉の部屋の奥に、エルザという名のユダヤ人の少女が匿われていることに気付く。エルザとあれこれ話しているうちに、ジョジョはそれまで大人たちに聞かされてきたことが真実でないと悟るものの、反ナチスの運動がバレて処刑された母親(スカーレット・ヨハンソン)の遺体を街の広場で目撃する。やがてドイツは敗戦し、クレンツェンドルフ大尉たちとともにジョジョも進軍してきたソビエト兵に捕まりそうになるのだが、大尉は咄嗟に機転を利かせ、ジョジョの制服を破り捨てると「ユダヤ人め!」と怒鳴ったおかげで、ジョジョはソビエト兵から解放される。クレンツェンドルフ大尉たちはそのまま銃殺され、ジョジョとエルザは解放された街へ踏み出していくーー。
この映画は全編にわたってコメディとして撮られていて、およそナチスに関係する作品とは思えないノリになっている。そのことによって暗くなりがちなテーマを真正面から見ることができる。かわいそうだとか残酷だとか、そうした感情よりも、なぜ大人たちはこうした行動をとっていたのか、という素朴な疑問を子どもの目線から描くことに成功した。
ジョジョの"信念"といっても、まだ10歳の少年が世の中に対して考えていることは大人の焼き増しに過ぎない。ユダヤ人の少女を目の前にして、君は死ぬべきだという感覚を持つ人間はほとんどいないだろう。ナチスの幹部にも反ナチスの者が少なくなかったことはよく知られている。それに、そもそも誤解されているが、ヒトラーがユダヤ人の"絶滅"を命じた行政文書は存在しない。これはユダヤ人の学者たちも皆認めている歴史の事実だ。ナチス・ドイツによるユダヤ人の強制収容とその一部の虐殺は、いわば総統の理想の実現などの名の下に行われた壮大な"忖度"だ。ヴァン湖での会議も、ユダヤ人に対応する部署が親衛隊なのか軍なのかをはっきりさせたいという意図によって開かれたものだ。このように、全体主義はある方向に進み始めるとブレーキをかけることが非常に困難な体制であるということを"世界でいちばん全体主義者"の日本人はよく知っておくべきである。
ジョジョの母親が反ナチスの行動によって殺されたことも、クレンツェンドルフ大尉たちがソビエト兵によって射殺されたことも、それらを経験したジョジョたち若い世代が未来への糧とすることができる。ジョジョはきっと良い大人になっただろう。価値なんてものはすぐに変わる、ということを知っている人間は強い。僕の父親はよく、幼い頃に大人たちの言うことがコロッと変わった経験をしているから、世の中で言われている価値なんて信用していないと言っていた。これは仏教や道教の考え方に近しい。そこで父親は、"芸術"と"合理的であること"だけを大切に生きていた。音楽や絵などの芸術はいつもそこにあるものだし、日本人のダメなところは"合理的でないこと"だと信じていた。本作のジョジョは、のちに画家や小説家になったかもしれない。
ニュージーランド人のワイティティ監督は2010年に原作を読んで映画化することを決めたものの、ここから脚本を書き直したり、製作費が思うように集まらなかったり、いわゆる development hell に陥ってしまう。サーチライト・ピクチャーズが脚本を気に入ってからあっという間に完成した映画である。良い作品なので、無事に公開できてよかった。