トム・クルーズじゃダメなんだ / 「マルコヴィッチの穴」
ハリウッドの映画制作会社の人たちは、いつも面白い脚本を求めている。何を面白いと感じるか、それは人それぞれかもしれないが、たまに「なんだそれは」と言いたくなるような、シュールレアルな脚本が採用されたりする。
1999年の映画「マルコヴィッチの穴」(原題は Being John Malkovich)は、いかにもハリウッドらしい、奇想天外を突き詰めたような脚本だ。脚本を書いたチャーリー・カウフマンはあちこちの制作会社から映画化を断られ、フランシス・フォード・コッポラ監督に送ってみたところ、コッポラ監督がそれを娘のソフィアの友達だったスパイク・ジョーンズに渡して実現した映画である。とある制作会社の社長からは「なんで Being トム・クルーズじゃダメなんだ」と怒られたそうだが、この映画はジョン・マルコヴィッチでなければならなかったと思う。演技の上手い俳優でありつつ、どこかミステリアスな雰囲気をまとい、セクシーな声の持ち主だ。マルコヴィッチの1990年の主演作「シェルタリング・スカイ」については以前書いた。
さて、本作は実にバカげた設定である。主人公のクレイグ(ジョン・キューザック)は無職の人形使いであり、とある会社にファイル整理係として採用されるのだが、そのオフィスでジョン・マルコヴィッチの頭の中に通じるトンネルを発見する。「不思議の国のアリス」のように、夢の世界に行くわけでもなく、タイムマシンとして機能するわけでもなく、マルコヴィッチの頭の中である。僕が制作会社の担当なら、What? と言っただろう。
物語はここから、クレイグが片想いしているマキシンと、クレイグの妻ロッテ(キャメロン・ディアス)を巻き込んでドタバタと展開する。ロッテはマルコヴィッチの脳に入ることで自らの性同一性障害を自覚し、マキシンはクレイグを抱き込んで金儲けに走りつつ、マルコヴィッチの肉体を介してロッテとセックスをする。一方、クレイグはマルコヴィッチの知名度を利用して人形使いとして活躍することを思い立つーー。
こういう映画を良く評価したいのは、他のどの映画とも似ていないからだ。自意識の中に他者が介在することなどあり得ないわけだが、しかし我々はいつも何らかのカタチで他人に"影響"を及ぼして生きている。何かを言わされたように感じることや、せざるを得ないように仕向けられたり、つまりマルコヴィッチの脳に侵入するというアイディアが"ぎりぎり理解できる"のだ。しかも、劇中でマルコヴィッチが自分の脳に入ると、世界がマルコヴィッチだらけだったというギャグも演じられる。
こうした荒唐無稽な筋書きにもかかわらず、今日まで"おバカな映画"として有名であり続ける理由は、やはりジョン・マルコヴィッチの演技力だろう。コメディなのに、コメディであることを感じさせないくらい、本人は脳に誰かが侵入している様子を上手く演じていた。
映画の後半はこの物語を閉じるために苦労した様子が伺えるものの、物語は始めるよりも上手に終えることの方がはるかに難しいのだ。脚本を書いたチャーリー・カウフマンはこの"他人の脳に侵入する"というアイディアをさらに発展させ、2004年に映画「エターナル・サンシャイン」の脚本を書いた。
ハリウッドでは脚本家が大きな力を持っている。それはそうだろう、台本が無ければ演技も撮影も出来ないのだ。しかし、アイディアはそう簡単に次から次へと出てくるものでもない。だからアメリカの脚本家たちはノンフィクションからフィクションまで、あらゆる本に目を通したりして、制作会社に持ち込む脚本のネタを競い合って探している。だからハリウッドの映画は"面白い"のだ。