
心がモノクロになっていませんか / 「裁かるるジャンヌ」
カールドライヤーといえばナノケアでキマリ!ではなく、カール・テオドア・ドライヤー監督の話である。デンマーク人のドライヤー監督は映画の草創期に活躍し、フランスに招かれて制作した1928年の映画「裁かるるジャンヌ」などの名作によって知られている。
よくモノクロの映像を観ていると、当時の人たちはモノクロの世界に生きていたように錯覚してしまう。しかし色彩豊かな世界をモノクロでしか記録することができない、おまけに音声も同時に記録できない、などの制約があるなかで撮影されているので、製作費1億ドルなどという今日の下手な映画より遥かに凝縮されたシーンが多い。また、口だけが動いていて音声が聞こえなくても、何を言っているか容易に想像できるよう撮影されている。言い換えると、編集さえ上手くすれば、映像だけで人に物語を伝えることはできる。僕の好きなアート系のイタリア映画は、決してセリフが多くない。近頃の映画のように安っぽい会話をするくらいなら、今村昌平監督やテレンス・マリック監督のように動物を撮っていれば良いのだ。その方が表現として上品である。隠喩なんてバカに伝わらないだろ!と映画プロデューサー/スタジオに怒られ、どんどん映画からメタファーを取り除いていった結果、観客の心がモノクロになった。
さて、「裁かるるジャンヌ」(原題は La Passion de Jeanne d'Arc)は、実際にフランスに残されているジャンヌ・ダルクの裁判記録をもとに構成されている。この映画を観ると、まるで当時の裁判を見ているようだと錯覚してしまうほどの迫力に満ちているのだが、それは映画を語る連中がコピペのように書いている、"ドライヤー監督がクローズアップを多用した"せいではない。それならばクローズアップばかりの映画はどれも鬼気迫るのかということになる。説明する力量がないから技法の話に逃げるなんてお前は仏文科か、と言いたくなる。抽象的な単語を頻繁に用い、説明になっていないくせに説明ヅラをする我が国の映画村の伝統芸能もまた、この国の映画の衰退の一因である。
このジャンヌの迫力とは、ドライヤー監督が本作を通して、世の中が1人の女を追い詰めるという理不尽を強く問題視していたことに由来する。ジャンヌを追い詰めたものとは、政治であり、宗教でもあり、つまり世の中の主流である。主流が傍流とならぬよう障害を取り除こうとする暴力は古今東西のお約束だが、ジャンヌは聖職者すなわち男たちによって命を奪われようとしている。ここで明らかにミソジニー(misogyny/女への憎悪や軽蔑や偏見)が浮かび上がるようドライヤー監督は撮影している。聖職者にホモや小児性愛者が多いことはもはや常識だが、そうした男たちが寄ってたかってジャンヌを裁く姿は非行そのものであり、もちろんミソジニーが含まれており、つまりキリスト教という宗教の抱えている暴力が晒し出されている。観客はこの裁判を見ているうちに狼藉としか映らなくなっていくことを感じ、ジャンヌの涙に人の愚行を恥じるばかりなのだ。この迫力とは、正義や正統を語る人間の愚かさを目の当たりにし、各人に反省を促すようなドライヤー監督の問題意識から発せられるものだ。案の定、フランスで製作された映画にもかかわらず、パリの大司教をはじめフランスの教会や政界の有力者たちからの抗議を受けて本作は改変され、オリジナル版を再び鑑賞することができるようになったのは1981年のことだ。人間が宿している他人への暴力が描かれた映画なのだ。ジャンヌは喩えに過ぎない。
そして誰もが他人事ではないからこそ、こういう映画を観て、心はモノクロでなくカラーであろうとすることが、バカな主流から身を引き離しておく良策である。