自殺したい男の物語のフリ / 「桜桃の味」
物語にはいくつかの種類がある。最も身近なものは「ミッション・インポッシブル」や「スパイダーマン」のように、出来事の連鎖を描くものだ。何かが起きたことを伝えるのだから、ほとんどの映画はいわば"出来事映画"である。また、物語を通して何かを喩えることが主眼の、寓話と呼ばれる様式もある。古くは「竹取物語」がそうであるし、「平成狸合戦ぽんぽこ」や「チャーリーとチョコレート工場」などは人間の営みの醜悪を表現しようとしている。このスタイルは一見すると暢気な物語に見えるので、"分かる人が分かればいい"というノリで、政権や大衆を批判する時に使用されることの多い形式だ。
前回の記事で扱った「楢山節考」によってパルム・ドールを受賞した今村昌平監督は、1997年の映画「うなぎ」で二度目のパルム・ドールに輝くのだが、その時に同時受賞となった作品が、イランのアッバス・キアロスタミ監督の映画「桜桃の味」だ。これは典型的な寓話と捉えて構わない映画だろう。イランはパフラヴィー朝が倒されて以来、映画監督たちは表現しにくい立場に留め置かれている。
本作は上映時間の大半がクルマの中である。主人公バディが自殺しようとして、何人かの人物を代わる代わる助手席に乗せて、遺体に土をかけてくれるよう頼む、という奇妙な筋書きだ。テヘラン郊外の砂山を走るクルマをじっと撮っていたり、何を表現したいのかとポカンとしてしまうのだが、助手席に乗せる人物が"異民族"ばかりということに気付くと、ああこれは寓話だ、と分かるようになっている。
はじめに乗せた若い兵士はクルド人である。金のために兵士をしているものの、大金を渡すから手伝ってくれと言うバディの頼みを断って走り去る。次に乗せた人物はアフガン人の神学校の生徒だ。この生徒はバディの頼みを聞いてくれそうになるものの、やはり自殺は罪だと言って宗教を理由に断る。最後にやっと望みを叶えてくれることになったのはアゼルバイジャン人の男だ。ちなみに、イランでは人口のおよそ4分の1がアゼルバイジャン人である。
このように、イランの物語にもかかわらずペルシャ人を乗せていない。つまり、主人公バディというペルシャ人が窮地に陥った時に、誰が助けてくれるのかということを暗示している。アゼルバイジャン人の男は、バディに親身になって生きることの希望を説いた。イランの実情に詳しい人なら、もっと細かいところまでキアロスタミ監督の狙いに気付くだろう。
この映画は最後の数分で、これは映画だと念を押すようなシーケンスが挿入される。本作が映画、すなわち寓話であることに気付いてくれよという観客へのメッセージだ。ボーッと観ると、自殺志願者が決断しきれずに夜空を見上げるという、ただそれだけの映画だし、それはそれで人の心を打つものだが、この映画がイランから出てきたという事実が本作の価値を上げている。これ以上に何かを表現することはおそらく難しいのだろう。
2011年のアスガル・ファルハーディー監督の映画「別離」も明らかに寓話であろうし、公表しにくい状況でも外に向かって寓話として発信するというイランの映画監督たちは気合が入っている。
おかしいと思うことを公表したり、問題点を指摘することは大切なことだ。僕はスタジオジブリの作品なら「平成狸合戦ぽんぽこ」がいちばん好きだ。ただ、冒頭にも書いたように、寓話という形式は、物語を進めながら登場人物たちを批判するものなので、多くの人に主旨が伝わるものではない。
1990年代のパルム・ドールといえば他にも「ワイルド・アット・ハート」「さらば、わが愛/覇王別姫」「ピアノ・レッスン」「パルプ・フィクション」「アンダーグラウンド」「ロゼッタ」など名作揃いだ。最近は明らかに映画の質が下がっている。