性を感じる映画 / 「オペラ座/血の喝采」
オペラと呼ばれる歌劇を発明し、フェラーリやランボルギーニなどの工業デザインやファッションで活躍しているように、イタリアという国は何かを表現することが非常に得意だ。ネオレアリズモを支えたイタリアの映画監督たちや、フェリーニ監督、パゾリーニ監督など、数多くの人たちが鮮烈な作品を残している。ここ最近のイタリア映画といえば、やはりダリオ・アルジェント監督だろう。
ジャッロと呼ばれるグロテスクなスリラーを撮ることが得意なダリオ・アルジェント監督は、その作品の中で特に"性"を扱うことが多い。1987年の映画「オペラ座/血の喝采」では、サディズムやマゾヒズムと呼ばれることの多い"縛られた女"をテーマにした。
物語は、シェイクスピアの「マクベス」を題材にしてヴェルディが作曲したオペラ「マクベス」の上演とともに進む。オペラはイタリアが生んだ伝統芸能である。冒頭からカラスが鳴きながら登場し、誰の目線なのか分からない視点から登場人物を追いかけるカメラワークで観客を惹きつける。
黒い革の手袋や激しい流血など、ジャッロの定番とされるアイテムを用いながら、アルジェント監督は「マクベス」のように短剣を凶器として登場させる。
そして同時に、犯行を主人公のベティに見せつけるという目的から、ロープで柱に身体を括り付け、目を閉じることができぬよう針を瞼の下に貼り付ける。こうしたフェティッシュなベティの姿を撮ることで、アルジェント監督は観客に対し「君たちはこういう行為に性を感じているのではないか」と問いかけている。
かつてクローネンバーグ監督の「クラッシュ」についての記事でも書いたように、性の"倒錯"というものは実は多数決に過ぎない。
それに、今日ではSMのような単語がかなり普通名詞のように使用されているが、それこそがアルジェント監督たちをはじめとした映画人たちによる"啓蒙"のお陰とも言えるのだ。「オペラ座/血の喝采」は1987年の作品だが、それから後にも映画において"縛られた女"というモチーフが山ほど用いられてきたからだ。かつてはごく一部の者による秘め事だったことが、どんどん映画によって"一般化"されてきた過程とも言える。そしてこの一般化は、こんなことをされてみたいという女たちの静かな支持によってなされたことでもある。
アルジェント監督は映画監督らしいと言うべきか、おそらく"目"についてのフェティシズムの感覚を持ち合わせている。僕はいまいちピンとこないものの、こうしたフェティシズムが性そのものであるということはよく分かる。1987年にこの映像はかなり挑戦的なものとして受け止められたことは想像に難くない。しかし、表現とは既成のものを破壊して進むものだ。
人は性を無視して生きることはできない。しかし、それは秘められたことでもある。"ド変態"というありがたくない称号を得てしまうかもしれないので、性の興奮を何によって得るかということを多くの人は常に隠している。だからこそ、一部の映画監督たちが開き直って表現することに映画の意義がある。アルジェント監督はいくつになっても性にまつわる作品を撮り続けている。僕は大好きである。
ちなみに、原題は Opera である。いったいどこから血の喝采なんて単語が出てきたのか。本当に邦題はふざけている。
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