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貧困を演じるだけの寸足らず / 「ロゼッタ」

映画はいろんなことをテーマにしているが、最近よく見かけるものは貧乏を扱ったものだ。「万引き家族」や「パラサイト 半地下の家族」など、パルム・ドール受賞作には貧しさがテーマの映画が少なくない。1999年の映画「ロゼッタ」も同年のパルム・ドールを受賞し、僕は今でもたまに本作を思い出すことがあるのだから良い映画には違いないものの、あまり好きではない。
たとえばヴィットリオ・デ・シーカ監督の1948年の映画「自転車泥棒」も貧しさゆえにアントニオが苦労する物語だが、あの映画では登場人物たちは全員ローマの市民であり、貧困のなかでみんなが生きようとしているモーメントが強かった。ラストシーンで息子のブルーノが父の手を引いて歩くシーンにそのことがよく表れている。それがネオレアリズモという表現のもつ真実味だった。
それに対して、今日の映画産業とはほとんどセレブの仕事であり、演じている美人はみんな女優である。スクリーンのすぐ外ではモンベルのダウンを着て紅茶でも飲んでいるのだ。そうした人たちが貧困をテーマにしても、「ほら、かわいそうだろ、お前らこれを批判できないだろ」という態度が透けて見えてしまう。「ロゼッタ」を撮ったのはダルデンヌ兄弟というベルギー人だそうだが、いかにもベルギー人らしい選良/選民意識が滲み出ている作品だと言わざるを得ない。
"グランド・キャニオン"と呼ばれているトレーラーハウスの並ぶ地区でアルコール中毒の母と暮らすロゼッタが、アルバイト先をクビになるたびに仕事をくれと喚いたり、母親に突き飛ばされて近所の池に落ちてしまったり、そういうシーンが続くたびに「ほら、こんな貧困は政治のせいだ、君たちはこんな暮らしをしている人がいるなんて見ないフリをしているだろう、かわいそうだろう、この映画を批判できないだろう」という監督の声がほとんど聞こえてくる。貧しさをリアリズムのように描写するというフリをして、監督の心のなかに宿る"上から目線"を全く隠そうともしていない。映画がテーマとすべきことは、貧困そのものではなく、こうした映画の登場人物たちを通して、"本当の貧困とは心の貧しさ"であることを伝えることだろう。「ロゼッタ」にしろ「パラサイト 半地下の家族」にしろ、登場人物たちのドタバタにほとんどの時間が割かれていて、心が見当たらない。人の心模様を描かない映画なんてノーラン監督作と同レベルである。「自転車泥棒」には心があった。むしろ、あのモノクロ映画には心しか映っていない。
人は他人を自分の物差しでしか見ることができない。だから少しでもそれを是正するために教養があり、芸術がある。しかしそれにも限界がある。黒澤明やデヴィッド・リンチのように、"他人を描く"ことが上手い監督は多くはない。これこそ一種のセンス、あるいはギフトだろう。「ロゼッタ」が出品された年のカンヌ国際映画祭にはデヴィッド・リンチ監督の「ストレイト・ストーリー」も招待されていた。僕は後者がパルム・ドールに相応しいと思うが、リンチ監督は1990年に「ワイルド・アット・ハート」でパルム・ドールを受賞しているし、「ロゼッタ」のダルデンヌ兄弟はベルギー人で本作はベルギー/フランスの共同製作だし、という大人の事情もあったのかもしれない。

いまでも、貧しいシーンといえば「ロゼッタ」を思い出すことがある。手つきが見えているという点が気に入らないのだろう。もちろん駄作とは思わないし、きっと気に入る人もいるのだろうが、僕には合わない表現であった。

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