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失われた娘を求めて / 「赤い影」
これは出来の良い映画である。しかし、というより、だから、と書くべきかもしれないが、我が国ではあまり知られていない作品だろう。ニコラス・ローグ監督の1973年の映画「赤い影」は、アートのような撮影といい、赤い服をモティーフとして上手く用いていることといい、完成度の高いスリラーだ。アルフレッド・ヒッチコック監督の作品を思い出させる雰囲気は、「レベッカ」(1940年)や「鳥」(1963年)と同じくイギリスの作家ダフニ・デュ・モーリエの小説が原作であるからだろう。ニコラス・ローグ監督は「アラビアのロレンス」(1962年)の撮影第二班の監督を務めていた男で、「ドクトル・ジバゴ」(1965年)では撮影監督を任されていたものの、デヴィッド・リーン監督と喧嘩して降板したそうだ。撮影に長らく携わってきた監督なので、本作もスクリーンのなかはアートのようである。
スリラーなので核心に当たる話は避けるが、筋書きはシンプルである。イギリスの片田舎で暮らすジョン(ドナルド・サザーランド)とローラ(ジュリー・クリスティ)の夫婦は、事故によって娘のクリスティンを亡くし、悲しみを抱えたままヴェネツィアへ行く。ジョンが古い教会の修復に関わる仕事をしているからだ。ところがヴェネツィアで出会った盲目の女に、亡くした娘が見えると告げられ、夫妻は現実や正気から離れていくのだったーー。
まず、ヴェネツィアで撮影された本作には、この2年前に公開されているルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」をオマージュしたようなシーンがある。あちらの作品は主人公グスタフが美少年に恋焦がれることが原動力となり、追いかける(ストーカーする)ようなカットで構成されていたが、「赤い影」の物語を動かしているものは悲しみだ。娘を失ったという喪失、悲哀がエンジンになっている。だから「ベニスに死す」よりも、カメラを遠くへ引いた位置から辺りを俯瞰するように、ヴェネツィアの街中でジョンが取り残されているように撮影されている。
そしてジョンは、ヴェネツィアで赤い服を着た娘の幻影を見る。これは明らかにマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』のゲルマント公爵夫人(オリヤーヌ)のエピソードが参照されている。小説の語り手はゲルマント公爵夫人の赤い服から失った愛を思い出し、「赤い影」のジョンは娘の面影を追い始めてしまう。『失われた時を求めて』は長ったらしくフランス的な独り言の集大成であり、別に読まなくても構わないものだが、ヨーロッパのインテリは意外と読んでいるので、たまにこうして"フィーチャリング"される。僕は学生時分に読んでみたが、数ページ毎に"うるせえバカ"と思った。手法は良いのに、長すぎる。我が国で映画を"批評"したり"論じる"連中は、そもそも文学をちっとも読んでいないことも珍しくないので、こういう元ネタの指摘が出来ていない。ただの感想を批評と言われても笑止である。
さて、こうして映画の最後まで、悲しみが動かすスリラーは珍しい。これが本作をヒッチコック風でありながらも"エンタメ"とは言い難い理由だ。イギリスとイタリアの製作による作品だが、やはりヨーロッパの映画はアートに近付こうとしている。核心を知っても、やはり悲しい作品なのだ。監督の地元であるイギリスでは大変人気のある映画だそうだ。さすが演劇の国である。
ちなみに、恒例となっていることではあるが、本作の原題は Don't Look Now である。「赤い影」なんて忍者じゃあるまいし、ということはさておき、ドナルド・サザーランドの名演が楽しめる作品である。