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選択の連続だよね / 「ノーカントリー」

There’s no such thing as life without bloodshed. The notion that the species can be improved in some way, that everyone could live in harmony, is a really dangerous idea.
(流血することのない命なんてものはないんだ。生物の種がどうにか改良されるとか、あらゆるものが調和して生きることができるなんていう見解は、本当に危ない考え方だね)

Cormac McCarthy

前回のnoteを書きながら、ここ最近で文学作品が映画になってヒットした例は2007年の映画「ノーカントリー」くらいだろうと考えていた。本作は最近のアメリカ文学を代表する作家の1人、コーマック・マッカーシーが2005年に著した小説 No Country for Old Men をコーエン兄弟が原作にほぼ忠実に映像化したものだ。
しかし、ただ不気味なだけだった、という感想を持つ方がきっと多いだろう。ストーリーに起伏があるわけでもなく、ミステリーもラブストーリーもない。本作は、ハビエル・バルデム演じるシガーという暗殺者の、無慈悲ぶりを描写することが主眼となっている。だから不気味という感想で構わないのだ。なぜなら、映画や小説などフィクションの世界では悪もまた"交渉できる"存在であることが一般的であり、人間であるシガーがまるでターミネーターのように追ってくる様はホラーに近いものがあるからだ。
しかし、映画の"感想"を書くような類の者は、不気味なんて幼稚な単語で済ませてはいけない。感動とか不気味とか切実とか、そんなものは感想ではない。
さて、本作は1980年のテキサス州が舞台になっている。たまたまドラッグ取引の現場に居合わせたモス(ジョシュ・ブローリン)が、200万ドルの入ったスーツケースを拾うところから話が始まる。それを追いかける暗殺者シガーと、ベル保安官(トミー・リー・ジョーンズ)の3人が物語の主役だ。テキサス州とメキシコの国境付近の町をモスは南へ逃げていき、やがてメキシコに脱出するものの、エルパソに帰国したところでギャングたちに殺されてしまう。シガーは尚もモスの妻を狙い、映画の冒頭と同じく、コイントスをして運命を決めろと迫るーー。
これはあらすじであって、マッカーシーが描こうとした本筋はシガーというキャラクターに集約されている。すなわち、シガーは悪の現前でありつつ、突然訪れる死の象徴であり、また同時に、人間が何かを"選択すること"の意味を表している。
いろんなことをしながら毎日を生きる人たち誰もが、死の到来を経験する。モスのように撃たれる理由があるキャラクターはまだしも、ガソリンスタンドの店員やモスの妻など、あらすじの上では死ぬ必要がない人たちにも、突然シガーが現れることによって、人は常に死という氷の上を歩いているようなものだと示唆される。映画や小説を眺めていると、登場人物が死ぬことに意味や理由が付与されているものだが、ではこの世界で毎日山のように発生している死に、意味や必要性などあるだろうか。
しかしシガーは、コイントスをしろと告げる。これは選択のことだ。我々が毎日、あらゆる小さなことまで含めて、たくさんの選択をした結果が現在を形作っている。自らのコイントスという行動によって未来を決めろとシガーに迫られ、ガソリンスタンドの店員は死を免れた。劇中でもモスやベルがいろんな選択をしていたが、その選択の集合体がこの映画なのだ。つまり、この映画ではないあらすじ、店員が殺されるエピソードも含めて、あらゆることが"起こりうる"ということが本筋である。ここには人生における自由意志が示されていると言ってもいい。
凄惨なシーンの暴力が有名になった映画だが、実はそうではなく、誰もがいつか迎える死や、日々の選択に伴って立ち現れる現実こそが、まさに暴力のように我々に迫ってくるものだ、ということを伝えている。
こうした使者としてのシガーを演じたハビエル・バルデムの迫力は鬼気迫るものだった。この映画の意外なほどの成功はハビエルの演技によるところも大きいだろう。「それでも恋するバルセロナ」でナンパ男を演じたのはこの翌年である。
マッカーシーは昨年、89歳で亡くなった。

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