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悪役は悪なのか問題 / 「狩人の夜」

H-A-T-E! It was with this left hand that old brother Cain struck the blow that laid his brother low.
(に・く・し・み! この左手でもって年長のカインは弟を打ち倒したんですよ)

Harry Powell

今日では名作として名高い1955年の映画「狩人の夜」(原題は The Night of the Hunter)は、公開された当時、観客からも批評家からも良い評価を得ることができなかった。アートだったからだ。アートとはいつでも一部の関係者だけが称賛し、その評価が大衆に伝わるまで時間を要するものだ。
本作の主人公である殺人犯のハリー(ロバート・ミッチャム)は後のアメリカ映画で山ほどオマージュされている。スパイク・リー監督の「ドゥ・ザ・ライト・シング」やコーエン兄弟の「ビッグ・リボウスキ」など枚挙にいとまがない。「狩人の夜」の前年に公開された映画「帰らざる河」でマリリン・モンローの相手役マットを演じて有名になったミッチャムだが、現代では「狩人の夜」が代表作といえるほど、本作の評価は高くなっている。
物語そのものはシンプルな構成である。舞台は世界恐慌の時代、ウェストヴァージニア州でクルマ泥棒の罪で30日間服役していたハリーが、死刑囚の男から1万ドルの現金を隠したという話を聞き、出所してから男の家を訪ね、ジョンとパールという子どもたちから現金の在処を聞き出そうとするーー、という筋書きだ。フィルム・ノワールの調子で撮影された本作が他の映画と一線を画していたのは、特定のジャンルに"寄せていない"作品だったことだ。これはフィルム・ノワールのようでありつつ、マザーグースのようでもある。サイコ系の映画に見えなくもないが、おとぎ話でもある。悪役のハリーは狂気を漂わせつつ、神を語り"宣教師"を自称している。この作品を満たしている万華鏡のようなスタンスは、清濁併せ吞む人間の姿を表している。そのことを象徴するように、ハリーは右手にLOVE、左手にHATEという刺青をしている。ハリーが狂気の男だとしても、未亡人となったウィラの肉欲を指摘し、信仰の乱れを市民たちに説教していたのはハリーであり、そのウィラの死体を発見したバーディは保身から警察に黙っていた。つまり本作で無垢な登場人物であったのは子どもたちだけであり、大人たちは皆どこかで"悪役"でもあった。こうした姿勢は善悪二元の大好きな(知的水準の低い)観客にはウケないだろう。いつでもどこでも、知性に欠ける者は二元論である。反ワクチンだの、反日だの、世の中を"正統と、それ以外"という風にしか捉えることができないからだ。「狩人の夜」はハリーが悪役というよりも、大人は誰もが悪ではないかという立場である。アカデミー賞にノミネートすらされなかったが、それがむしろ作品の価値を証明しているのかもしれない。
そんな物語のなかで"救い"の役割を果たしている人物が、孤児たちを育てているレイチェルである。LOVEを体現する女だ。私刑のように群衆を扇動するアイシーがHATEの女だろう。ジョンとパールはレイチェルによって保護され、ハリーの魔の手から逃れるのだが、しかしジョンはハリーに対して"許し"のようなものを与えている。これはハリーの死を望んでいたキリスト教徒の観客たちにとって、ジョンこそが本当の"クリスチャン"ではないかという問いかけになっている。死刑という制度の再考を促すシーンであり、キリスト教の教義が有名無実と化していないかということだ。
優れた作品は、ジャンルを飛び越えているものだ。ダリオ・アルジェント監督はジャッロをアートに進化させているし、キューブリック監督の作品はどれも特定のジャンルに収まるものではない。言い換えると、ジャンルの枠のなかに収まっている映画はそれだけ射程が短いということだ。人間はLOVEもHATEも、いろんな感情を併せもつ生き物なのだから、そのことをうまく表現しようとするほど、ジャンルから飛び出していくはずである。「狩人の夜」はそういう映画だ。

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