分かりやすさも大切 / 「ガタカ」
良い出汁があればどんな料理にも使えるように、優れた原作は多くの変奏曲を生む。1997年の映画「ガタカ」は、冒頭に not too distant future と記され、人類が少数と大多数に分かれていて、主人公はタイタンへ行くという設定になっている。これはつまり、「トータル・リコール」の変奏曲である。1966年に発表されたフィリップ・K・ディックの小説 We Can Remember It for You Wholesale を下敷きにした話だ。冒頭の not too distant future という言い回しはディックへのオマージュである。
さて、遺伝子の技術が発達した未来において、valids (適正者)であるジェローム(ジュード・ロー)に成り変わる in-valids (不適正者)のヴィンセント(イーサン・ホーク)という設定は分かりやすく、「トータル・リコール」のように記憶を扱う物語よりも観客は親しみやすいだろう。「ガタカ」で描かれているような極端な減点方式とは、要するに日本列島の教育のようなもので、どんな分野のことにも valid であらねばならないということは、頭脳の大谷翔平が出てこなくなるということだ。得意なことを伸ばしてやるのが教育のはずだが、日本という国はディストピアとして運営されているので、そもそもこうしたことは議論にすらならない。
このようなSFと呼ばれるジャンルは、現実の世のいくつかの設定を変更することで、現実を批判することが主たる目的だ。遺伝子の技術は発展し続けているし、人類も少数と大多数に分かれている。「ガタカ」の世界に向かって突き進んでいるのだから、新たな倫理もそのうち生まれてくるだろう。こんな世の中になったら嫌だなと思うかもしれないが、そもそも少数が大多数を支配することが人類の歴史なのだから、この設定はフィクションではなくリアルである。
映画のラストシーンにおいて、in-valids であることがバレたヴィンセントがそのままタイタンへ向かうことを検査官が許したが、監督と脚本を務めたアンドリュー・ニコルはこうしたハッピーエンドが好きなのだろう。「ガタカ」の翌年に発表された「トゥルーマン・ショー」の脚本もアンドリューである。
SFは人気作がなかなか生まれないジャンルなのだが、アンドリューは観客に伝わりやすい設定を考えつくことが上手い。ニュージーランドの才能である。