痛々しい人生とは何が欠けているのか / 「レイジング・ブル」
マーティン・スコセッシ監督の1976年の映画「タクシードライバー」に主演したロバート・デ・ニーロは、その後にスコセッシ監督の「レイジング・ブル」(1980年)と「キング・オブ・コメディ」(1983年)でも続けて主演を務めた。つまりスコセッシ監督は、キャリアの初期に精神を病んでいる男を主人公にした物語を撮っていた。「タクシードライバー」ではアメリカに馴染めない帰還兵の心の病理を描き、「キング・オブ・コメディ」では精神分裂病の患者がいかに現実を認知できていないかという様子を撮り、それらを通して"普通である"ということの下に潜んでいる狂気を指摘していた。こうした初期スコセッシの手法は、アルフレッド・ヒッチコック監督に近いと言える。
さて、1980年の映画「レイジング・ブル」についての記事は、いつもボクシングをしているデ・ニーロの写真が使用され、体重を増減させたデ・ニーロのアプローチがどうの、主人公ジェイク・ラモッタの自伝がどうの、およそどうでもいいことばかりである。これが"ボクシング映画"だというなら「ラスト・エンペラー」を皇帝映画と呼ぶのだろうか。本作はジェイクという精神を病んでいる男がボクサーとして成功するも、しかし家庭や友人など他人との関係をうまく築くことができず、各地のクラブでドサ回りをしながらスタンドアップコメディアンとして再び生きていこうと"もがき続けている人生"を撮った映画だ。ボクシングのシーンなんて、ほとんどどうでもいいことである。物語の核となっているものは、ジェイクという男が明らかに"病んでいる"ことだ。そしてこの病理とは「キング・オブ・コメディ」と同様に、ジェイクの生まれつきの気質であり、病むことの原因が他人などにあるわけではない。こうした"救いのなさ"ゆえに、ラストシーンでスコセッシ監督は聖書を引用している。
ジェイクは自らを映画「波止場」になぞらえて、I'm the boss.と何度も呟く。「波止場」の主人公テリーが1人でギャングに立ち向かったように、ジェイクは"この世の中"に1人で立ち向かうしかない、という姿が痛々しく、生きる上で人は何を重んじていくべきかということがジェイクに欠けているものとして提示されている。それはおそらく愛であり、信仰であるということがスコセッシ監督のメッセージだ。ジェイクの愛は激しい嫉妬あるいは独占欲としてしか現れず、ジェイクには勝利や成功ということへの信仰しかなかった。つまり、個人が己の欲望に忠実であればあるほど、身勝手な振る舞いばかりになってしまい、それはまるで精神分裂病の患者のように手前味噌な世界観のなかでしか生きることができなくなってしまう、ということだ。このテーマはそのまま「キング・オブ・コメディ」に引き継がれた。
回想の部分をモノクロで処理するなど、編集が実に優れた作品である。イカれた男を演じることがデ・ニーロは本当にうまい。だからジェイクの人生の痛々しさがよく伝わってくる映画となっている。