だらしない桃太郎でいいの / 「真昼の決闘」
メンコやおはじきで遊んでいたという僕の親父は、"近頃のガキはファミコンばかりして外で遊ばない"と僕を見て嘆息していた。最近の子どもたちは小さなデバイスを覗きこんで誰かの作成した動画を見ている。世の中が変わると娯楽も変わる。
20世紀の初頭に発明された映画は、現在に至るまで娯楽の地位を維持しているものの、その役割は少しずつ変わってきている。MARVELやアバターのように、CGを駆使した夢の世界を見せて楽しませる巨大事業が主流になり、100分ほどでお客さんを楽しませるよという気軽な娯楽はTikTokなどに負けたと言えるだろう。近頃の若者が"映画は長い、5分にしろ"と言うのも、YouTubeなどでインフルエンサーの作成する動画がそのくらいの長さなのだから仕方ないのかもしれない。
かつてアメリカでは西部劇と呼ばれるジャンルが流行っていた。正義の味方アンパンマンが悪い奴らをバキューンしてメデタシという、要するに桃太郎なのだが、こうした"ジャンル"が出来上がると必ずその約束事を破壊する試みが現れる。
フレッド・ジンネマン監督の1952年の映画「真昼の決闘」である。
この映画では、まず主人公の保安官ケイン(ゲイリー・クーパー)は悪漢とその仲間4人が街へやってくると聞き、逃げ出そうとしたり、ビビって街の人たちに助けを求めたり、とにかく腰抜けとして描かれている。桃太郎が鬼退治へ行こうとして猿、雉、犬に断られたようなものだ。おまけにクエーカー教徒(暴力を否定する一派で、アメリカでは迫害されていた)の新妻(グレース・ケリー)に肝心なところで助けてもらい、男らしさもヘッタクレもないのだが、そのことによっていわゆる社会通念とは何ぞや、ということを訴えかける作品になっている。主人公は必ず強くないといけないのか、男は正々堂々と向かい合って決闘しなければならないのか、女に助けてもらってはいけないのか、こうした疑問に向き合う機会を与えてくれる映画だ。
実際に、この映画を観たジョン・ウェインは"the most un-American thing"(もっともアメリカ的ではないもの)と評した。ラストシーンでケイン保安官がバッジを地面に投げ捨てたことも当時は評判が良くなかったという。しかし、その後現在に至るまで、このシーンが山ほどオマージュされているという事実は、この映画の訴えたことが人びとに伝わったと言えるだろう。
本作が撮影や公開された頃は"赤狩り"が始まっていて、主人公を取り巻く環境が政治的に解釈されることも多い。脚本家はこの作品の後に亡命しているし、確かにそうした側面もあると思うが、助けを得られない主人公という今日のスリラー映画にも通じる設定を持ち込んだ功績は大きい。焦り戸惑う保安官を熱演したゲイリー・クーパーはアカデミー主演男優賞を受賞した。作品賞を逃した理由は赤狩りだと言われている。今も昔も、アカデミー作品賞とは政治的な賞である。
既存の価値観あるいはお約束に挑戦することは胆力の要ることだ。だが、そうした試みによって我々の視野は広がっていくのではないだろうか。観客を居心地の良いところから引きずりだしてこそ"教育"にもなると思う。
先日、知り合いに教えてもらったのだが、TikTokのライブ配信はAIによって監視されていて、性に関わる発言や仕草は全てアカウント停止の処分を食らうのだという。性に関わることを言えないなんて、そんな狭い世界でみんな何をしているんだろう。人間から性を取り除いたら何が残るのか。つまり、そんな環境なんて監獄と同じじゃないかと僕は思う。そうして配信される"雑談"を楽しんでいる限り、既存の価値観に疑問を抱いたりすることは永遠にないので、120分の映画を観ている方が良い、とか言うと"昭和おじさん"と呼ばれるのだろう。