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【考えるヒント】 自意識フェス / ジム・ジャームッシュ

ワナビーという単語をご存知だろうか。これは wannabe という英単語で、何かになりたがっている人、気取っている人を指す言葉だ。アメリカのインディーズ映画において長らく有名なジム・ジャームッシュという映画監督は、まさしくワナビーの代表格だろう。なぜ、正月三が日が明けてジャームッシュ監督を取り上げるのかというと、ジャームッシュ監督の映画デビュー作である1984年の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は、前回の記事で取りあげた小津安二郎監督の「東京物語」のような作品を撮ろうとしたものの、肝心なことが抜け落ちている映画だからだ。それは、内容である。つまり、ジャームッシュ監督という人物は"小津のような映画を撮りたい"という動機によってカメラを回しているものの、小津安二郎監督のように"表現したいことがあるから映画を撮った"わけではないことがよく伝わってくるのだ。これがワナビーと本物の違いである。
たとえば、モテたい男とは、モテる男の振る舞いを真似る。仕草、髪型、話し方、そういった観察できることを模倣してモテようとする。ところが、そういうことをしているモテたい男すなわちワナビーは、モテる男の心を真似ることが出来るわけではない。だからワナビーはいつまでも本物になれない。ジャームッシュ監督はたくさん映画を観てきただろうし、手法などを模倣しているものの、おそらく心のなかに撮りたいこと、表現したいことが特に見当たらないのだろう。有名になりたい、"カルチャー系"でありたい、という欲望だけがスクリーンから滲み出ている。初めてのデートで Bunkamura を指定するような、大学で映画研究会に所属しているような、コムデギャルソンを愛用しているような男だ。そうでなければ、1984年に撮影する映画をモノクロにしないだろう。
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の劇中で、登場人物たちが競馬を予想するシーンがあるのだが、その馬名がどれも小津安二郎監督作品の英語の題名である。カメラを固定し、長回しによって他愛も無い会話をじっと撮影していることから、小津調の真似をしていることはすぐに分かったものの、あの手法は庶民の何気ない日常のなかにこそ伝えたいことがあると信じていた小津安二郎ならではの技法であって、その技法を真似するだけでは『知の技法』を読んでインテリになった気分の文学部生みたいなものである。技は技に過ぎない。表現とは心を映すものだ。
ところが、世の中の縮図である学校のクラスを思い出せば分かるように、本物なんてなかなかいるものではない。映画監督も脚本家も、医師も弁護士も経営者も、ほとんどワナビーに過ぎない。たとえば文章にしても、「こうすれば文章が上手くなる」などというnoteの投稿を真似てみたところで、君はいったい何を表現するというのか、という根本すなわち心が見当たらない筆者がほとんどだろう。僕は文才があるのでこうして映画を肴に芸をみせているだけだ。道化の文体である。
別にワナビーでも映画なんだから面白ければ良い、と思うのだが、ジャームッシュ監督の映画を"面白い"と感じる人は、きっとジャームッシュ監督のように、自意識過剰でナルシシズムから脱却できていない。同類相憐む、である。なぜそう断言できるのかというと、僕は鏡なんか全く見ないような男だから、ジャームッシュ監督の映画の会話(脚本)と"間"から発せられる強烈な自意識が不快になるのだ。明らかにナルシストである。僕は間違いなく自分の顔よりオチンチンの方をよく見る男だ。言い換えると、男としての能力に自信のない輩がナルシストになるのではないかと推察している。
さておき、全く評価できない映画監督である。インディペンデント映画でも、スティーヴン・ソダーバーグ監督は「セックスと嘘とビデオテープ」を20代の時に撮っている。伝えたいことがちゃんと見えている人は、ワナビーとは訳が違うのだ。

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