たたかう映画監督、大島渚 / 「日本春歌考」
フランスからヌーヴェルヴァーグが輸入され、まだ60年安保闘争の余韻が残っていた頃、"日本のヌーヴェルヴァーグ"なんて呼ばれ方もしていた大島渚監督は即興劇のような映画「日本春歌考」を1967年に発表した。前回の記事で扱ったゴダール監督を称賛してばかりの我が国の"映画村"の連中は、なぜ大島渚を評価しようとしないのか。それはおそらく、この映画でも描かれたような政治の要素を若者たちの教育の場から抜き取ってきた結果、きわめて稚拙な国家観しか持ち合わせていない大人たちばかりになり、御上/政府/行政に楯突くことが異質な行為として映り、みんなに同調するように言及されなくなってきたということだろう。ゴダール監督はカンヌ国際映画祭を中止させた程度だが、大島渚監督は映画を通じて日本国内のあらゆる圧力を相手に"闘争"していた男だ。ここは映画についてのnoteなので脱線はなるべく避けるが、政治に興味がないと平気な顔をして言っている大人を大量に生み出している国なんて、ディストピアそのものである。そういう大きな流れに抗っていたのが大島監督だ。
さて「日本春歌考」は題名が示すように春歌をクローズアップした即興劇、という仕上がりになっている。そこに若者の持て余している性欲と、"日本"という国が抱えているインチキを指摘するエピソードが挿入される。このように春歌という主流から遥かに離れたところから文化や歴史を眺めてみるという試みは、網野善彦が"農民ではない人たち"から日本史を再検討した作業のように、主流の言説がはらんでいる妄想を暴くことができる。大島渚監督は本作において、紀元節と騎馬民族説を取り上げ、日本という幻想を映像で表現しようとした。吉本隆明が『共同幻想論』を上梓するのは本作の翌年のことである。
主人公の中村(荒木一郎)たちは校名に劇中で触れないものの学習院大学を受験し、"戦後初めての2月の連休"を体験する。つまり建国記念の日が誕生した1967年の、2月11日のことだ。『古事記』や『日本書紀』を読んだことがなくても、紀元前660年に神武天皇が即位したという話が"物語"であることはほとんどの国民が理解している。しかし問題は、そのような"国民"という概念を生み出した明治維新によって付け焼き刃で成立させた大日本帝国があのような末路を辿り、200万人以上の国民を死に追いやった後に、日本国の政府が紀元節を復活させるとは狼藉ではないか、ということだ。劇中では、冒頭に掲げた黒い日の丸のデモ隊によって表現されていた。
北海道や沖縄がいつ日本になったのかということを考えれば分かるように、明治維新とは各国(阿波や讃岐など)が言葉も風習もバラバラに暮らしてきた列島を併合するための政治運動であり、天皇は各国を繋ぎ止めておく接着剤のようなものとして機能した。しかし、日本史の教科書の1ページ目を開いても分かるように、なぜか古代であるのに北海道から沖縄までが含まれた"日本地図"を子どもに提示することは、国民という概念の刷り込みのためである。史実に反しているのだから、ある種の洗脳だ。たとえば、僕の父親や親戚たちの世代(いわゆる戦前生まれ)から、"東北の連中は暗いから嫌いだ"という話を聞いたことは一度や二度ではない。かつてはこうした列島のなかでの仲の悪さを特に隠してもいなかったが、最近はテレビなどの効果によって地方も東京化/漂白されてきている。各県が舞台になっているNHKの朝ドラで方言がほとんど使用されないことも、こうした"国民"という意識を生み出すことに一役買っている。徳島県で「今日は雨だから学校に行かないよ」なんて文を話す人は一人もいないのだ。僕は方言で放送して字幕を出せばいいと思っている。どうせ僕はテレビを見ない。
「日本春歌考」はこのような"建国"を記念するとはどういうことなのかという、日本人の根源に当たる部分に突進している。騎馬民族説もずいぶん当時流行し、"俺は学が無いからよォ"が口癖だった僕の父親でも知っていた。もちろん今日では、遺伝子の解析などの技術によって、日本列島には朝鮮半島から多くの人たちが流入してきたことが判明しているし、古墳の中身なんてほとんど半島由来の文化だ。騎馬民族が"征服して王朝を建てた"という表現が誇張であり、騎馬民族から影響を多大に受け、列島のなかでそれぞれの言葉を話す民族たちがミックスジュースになったことはもはや史実であろう。
こういう風に、国家の土台に当たるところに幻想があるじゃないか、ということを指摘することはとても重要なことだ。単一民族だの紀元節だの史実に反するような物語を押し付けてくるな、という大日本帝国への反省である。なぜなら、大日本帝国は偉そうなことを言っておきながら国民を200万人以上も死なせ、東條内閣で商工大臣を務めていた岸信介が60年安保闘争の時の首相である。
こうした政治への強い問題意識を抱えていた大島渚監督は、本作に性のイメージをずっと漂わせた。好きな人を抱きたいというシンプルな生き物が、なぜ出鱈目を信じたり、奇妙な概念に囚われたりするのかーー、それはきっと、人の弱さに関係しているのだろう。
主人公たちの教師を演じていた伊丹十三の立ち振る舞いには実に品があった。こういう男が本当にいなくなった。大島渚も伊丹十三も、たたかう男であった。