調子に乗ってました / 「風と共に去りぬ」
スカーレット・オハラという「風と共に去りぬ」の女の主人公は、"気が強い"とか"自己中心的"とか"センター気質"などと評されているものの、しかしそうした負の評価にもかかわらず、本作への人気が全く衰えることのない大きな理由は、実はこの姿こそ女の本性あるいは理想だからだろう。人のものが欲しくなる女はそれなりにいるわけだし、自分の欲望を常に"他人に"実現してもらおうとする姿勢が全くないと言い切れる女はほとんどいないだろう。スカーレットとは、女というものに付いてくる属性の最小公倍数みたいな lady なのだ。
また、この1939年に発表された映画について、黒人の描き方が偏見に満ちていて白人至上主義者のバイブルだ、とか、クー・クラックス・クランなどに代表される白人の世界観の正当化だ、などの批判が常について回っているが、それは「今昔物語集」を読んで"仏教の押し付け"であり"階級制度の無批判な踏襲だ"などと言うに等しい。物語とは、その描いている時代を描写するものなのだし、何かを物語るとは常にどこかに視点が置かれているものなので、語られたことを現代の価値観で判断すべきではない。つまり、描かれた内容を批判するのではなく、物語を語る者はどこに土台があるのか、あるいは、語り手は自分の立場をも俯瞰して見ているだろうか、ということが批判されるべきことだ。
「風と共に去りぬ」は南部の白人のノリが全開で語られつつ、レット・バトラーはそんな南部の男たちに向かって戦前に冒頭で掲げた台詞を言う。つまり、本作の語り手はレットを通して南部の arrogance こそが敗北の遠因だと指摘しているのだ。そしてまた、これはスカーレットという女のことを指してもいるだろう。つまり、伸び伸びと白人の裕福な暮らしのなかで調子に乗っているかもしれないが、スカーレットには農園と傲慢しかないし、それが南部の正体だということだ。
北部には多くの港や工場があるということを指摘するレットの冷静な姿は、相手のことを知りもしないで戦争に勝てるわけがないという、自分の立場についての謙虚な姿勢、すなわち"知的"な態度の現れである。
じっとスカーレットを見つめていると、僕の目には自己愛性パーソナリティ障害にしか映らないのだが、こうした女が珍しいわけではない。スカーレットはアシュレーにせよレットにせよ、相手のことを知らずに"欲しがった"に過ぎないのだから、それはまさしく南部の姿そのものでもある。
そしてレットは、映画史に残る有名な台詞を告げ、去っていく。
風と共に去った南部という世界(civilization)とは、すなわち驕りによってつくられていたものだったという余韻が残るよう、名物プロデューサーのセルズニックは本作をうまく調整したと思う。ただのメロドラマといえばそれまでだし、そのように受け取っている観客が多いはずだが、レット以外の人物たちに通底する arrogance を描写することこそ、「風と共に去りぬ」という映画の主眼だったに違いない。
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