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親を許すということ / 「マグノリア」

And if thou refuse to let them go, behold, I will smite all thy borders with frogs.
(しかし、あなたが民を行かせてくれないなら、注意なさい、私はあなたの領土をカエルで罰するでしょう)

Exodus 8:2

ロバート・アルトマン監督は前回の記事でも書いたように、みんなが共有している価値観やジャンル、宗教など、いわゆる世間の"常識"を疑う姿勢を崩さなかったので、一部の監督や批評家たちから強く支持される一方、観客からは敬して遠ざけられ、大ヒット作には縁がなかった。もちろん、本人は自分の作品が"ウケる"ことなど望んでいなかっただろう。
こういうアルトマン監督の姿勢は、"みんな"と同じことをしたがる日本人には特に受け入れられにくい。ブランドや老舗が好きな全体主義者ゆえ、「ノーラン監督はすごい!」とか「さすがゴダール!」と言いたいだけの国民性なのだから、アルトマン監督や、その影響を公言するポール・トーマス・アンダーソン監督やアレハンドロ・イニャリトゥ監督よりも、「ダークナイトは傑作!」な記事が溢れる訳である。それはそうだろう、誰かを褒めることはどんなバカにでもできることだが、正しく批判するためには知性が必要なのだ。だから日本人は批判を嫌う。
PTAはアルトマン監督がずっと試していたアンサンブル・キャストの手法を受け継いだ。特定の主人公を置かず、複数の人物たちを巡るように撮影していくスタイルだ。そこにPTAならではのテーマ、すなわち、家族の崩壊、親子の関係、誰もが抱えている孤独、といった要素を映している。1999年の映画「マグノリア」は188分という長さといい、アンサンブル・キャストといい、とにかくウケない理由を山ほど詰め込んだ作品だが、この映画が伝えようとしている"他人を許す"というメッセージは普遍的なものである。
PTAは自分が生まれ育ったロサンゼルス近郊のサンフェルナンドヴァレーを舞台にすることが多い。「マグノリア」もそうだ。そして本人はカトリックとして育っているせいか、旧約聖書、特に「出エジプト記」を参照する。「マグノリア」ではカエルが空から降ってくるエピソードを借用しているし、PTAの次回作である2007年の映画「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」という題名は、出エジプト記からの引用である。
以下、本作と「出エジプト記」の関係について書くと記事が長くなりすぎるのでほぼ省略する。それに、「出エジプト記」を読んだことのある日本人なんてほとんどいないだろう。
「マグノリア」では互いに少しずつ関係のある大人から子どもまでの男女が、親子の関係に苦しみ、内なる孤独を隠すように生きている。そしてそれぞれの登場人物たちのエピソードが一体どこでぶつかるのか、ちっとも分からないように撮影されている。これはアンサンブル・キャストの中でも上級テクニックと言えるだろう。ウェス・アンダーソン監督の「アステロイド・シティ」のように、特定のイベントが起きた時に、それを各々の登場人物たちの視点で見るという方式を僕は"スタジアム方式"と勝手に名付けているのだが、「マグノリア」はスタジアム方式ではない。それぞれの登場人物たちのエピソードはほぼ独立しているからだ。「パルプ・フィクション」にやや近いとも言えるが、あの作品は登場人物が数名に限られている。アカデミー作品賞をなぜか受賞した2004年の映画「クラッシュ」と同じく、「マグノリア」はそれぞれの筋書きが交わらない。マグノリア方式と呼んでも良さそうだが、こんな手法で映画を撮る監督はPTA含め数名である。
空からカエルが降った時に、スタンリーだけが落ち着いてそれを見つめながら This is something that happens. と言っていた。このシーンによって、スタンリーこそが預言者すなわちモーセであると解釈して構わないだろう。出エジプト記ではモーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱するのだが、本作では親によって子が歪んだ支配をされているというメッセージに繋がっている。「マグノリア」ではほとんどの登場人物が親子関係に苦しんでいたからだ。それを認めて、受け入れて、親を許すことを通して、あなたはもっとあなたらしくなることができるのではないか、というPTAからのメッセージである。現代版のエクソダスだ。
こういう映画はテーマからして分からない、という方は「ダークナイト」や「ヴェノム」を絶賛する"感想"でも書いておけばいい。
余談になるが、「マグノリア」でのフィリップ・シーモア・ホフマンの演技は素晴らしいものだった。フィリップはPTA作品によく出演していたが、やはり良い役者は良い監督の作品に出演したいのだろう。

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