見出し画像

【超解説】 ファシストの別名 / 「暗殺の森」

"アート映画センター"といえるイタリアの歴史において、国家ファシスト党およびベニート・ムッソリーニは今日に至るまで重大な影響を及ぼしている。ベルナルド・ベルトルッチ監督の1970年の映画「暗殺の森」は、ファシズムという政治運動、ひいては人間が生きるということを"性"の観点から描こうとした意欲作だ。なお、原題は Il conformista であり、英訳は The Conformist、つまり「体制に順応する者」「みんなに従う者」という意味である。
さて、本作の冒頭は第三共和制の末期、すなわちドイツによる侵攻前夜のパリでのシーンである。マルチェロがエージェントの運転するクルマに乗り、誰かを追跡しているような姿が描かれ、観客は何が起きているのか分からない。ここから本作は幾つかのシーケンスが"フラッシュバック"する。今日では見慣れた手法だが、ベルトルッチ監督は本作をフラッシュバックにする必要があった。なぜなら、性に基づく人間の無意識ーーこれはフロイトの心理学の用語 das Unbewusste (無意識)の意味であるーーから政治や人生を描こうとするなら、ちょうど渦が中心へ吸い込まれていくように、見ることのできる出来事を時系列に関係なく並べることで、見えない中心を感じてもらおうとしたのだ。ブラックホールを描くということは、事象の地平面の外側にある降着円盤を描くことに等しい。
ちなみに、本日亡くなったというデヴィッド・リンチ監督も生前こう語っていた。

Keep your eye on the doughnut, not on the hole.
(ドーナツを見るようにしろよ、穴じゃなくてな)

David Lynch

「暗殺の森」のドーナツは、マルチェロが盲目の友人イタロに対して結婚することを相談しているところ、OVRA(イタリアの秘密警察)に加入すること、そしてモルヒネ中毒の母親や精神病棟に入院している父親に会うことがまず提示される。
次に時代は遡り、運転手のリノによってクラスメイトからのイジメを助けてもらった幼きマルチェロがリノから性的暴行を受け、ピストルでリノを撃ち倒すシーンが描かれる。
その次のドーナツでは、無神論者だと語るマルチェロに、婚約者のジュリアがカトリックの両親のために結婚する前の懺悔が必要であると語る。神父に対してリノの件や婚前交渉などの罪を告白し、"罪"の意識はないと言うマルチェロを神父が許したのは、マルチェロが秘密警察だと神父が知ったからだった。
そしてヴェンティミーリアの街で、国家ファシスト党の幹部ラウルから、パリに潜伏している反ファシズムのクァドリ教授を暗殺せよと命じられ、マルチェロは新婚旅行を装いジュリアを連れてパリへ行く。
しかし、学生時代の恩師クァドリ教授もその妻アンナも、マルチェロがファッショであることに気付いており、マルチェロはアンナに恋をする。クァドリ教授とマルチェロはプラトンの"洞窟の寓話"について語り合う。一方、魅かれ合うアンナとジュリアは冒頭に掲げた写真のように女同士でタンゴを踊り、会場の皆で輪になってダンスをする。マルチェロはエージェントのマンガニェロに暗殺することができないと言って銃を返却し、代わりにサヴォイア地方にあるクァドリ教授の別荘の住所を渡す。
ここまでがフラッシュバックであり、ここから本作は冒頭のシーンの続きとなる。これらのドーナツ、すなわちマルチェロの人生とは、"崩壊した家庭"から始まり、欲求不満であることが強く示唆されている。それは性を直接表現したシーンがリノによるレイプだけであること、ジュリアやアンナと情熱的なシーンがないことに表れている。秘密警察という仕事には満足している様子だが、しかしファシズムを思想から支持しているわけではなく、本人は内気で臆病な人物であるように描かれている。これはベルトルッチ監督によるファシズムの批判である。つまり、イタリアを席巻したファシズムとはマルチェロのような付和雷同の賜物に過ぎない、という指摘である。では、そのような追従(conformity)を生み出す原動力は何だったのかとドーナツを眺めてみれば、マルチェロには機能しない家庭があり、自分はホモではないかという疑念があり、ジュリアにもアンナにも真剣になることのできない風見鶏な気質があった。その気質を支えているはずの"性"は映画のラストで再び描かれるのだが、こうした男を通してベルトルッチ監督が表現しようとしていることとは、イタリアの結束(ファシズム)なんて、つまり洞窟の壁に写し出された影のようなものだということだ。輪になって踊るシーンはもちろんフェデリコ・フェリーニ監督の「8½」へのオマージュであり、つまり結束とはイタリア人にとってあのような祭り(festa)に過ぎないという揶揄である。
さて、物語はフラッシュバックを終え、アルプスの山中でクァドリ教授とアンナを暗殺するところが描かれる。アンナが必死の形相で後続車に助けを求めてみれば、そこには無表情で微動だにしないマルチェロが座っている。
そして1943年になり、ムッソリーニの失脚をラジオ放送が告げるなか、マルチェロはジュリアと子どもと共に暮らしている。ある夜、同志のイタロと散歩をしていると、殺してしまったと思い込んでいたリノを発見する。近づいてくる反ファシストのデモ隊に向かって、リノとイタロを"ファシストだ"と告げ口し、マルチェロは若い男とホモ行為に及んでいることを示唆して映画は幕を下ろす。
フラッシュバックを通して見れば、マルチェロがアンナを殺すことができないことはすぐに分かる。ファシズムを支えていたものは"ファシスト"ではない、ということがベルトルッチ監督の主旨だからだ。結束とは名ばかりの、付和雷同の産物なのだから、思想に殉じるということがあり得ないという指摘である。これは若い頃にイタリア共産党員だったベルトルッチ監督ならではの目線だろう。だからマルチェロはムッソリーニの失脚とともにレジスタンスに同志を売った。なお、この政変はイタリア国王と陸軍によるクーデターだったのだが、ナチスの力によってムッソリーニは復権を果たしている。もうこの記事が長くなってきて面倒くさいので省略して書くと、こうしたシーンで使用されている建物はどれもローマの中心部にある国家ファシスト党と縁のあるものである。また、クァドリ教授の別荘があるというサヴォイア地方とは、もちろんイタリア王国の王家(サヴォイア家)の出身地である。
この映画がなぜ Il conformista という題名なのか、もう分かるだろう。それがファシストの別名だという指摘である。映画サイトなどを見ると本作は「性的トラウマによってファシストになった主人公が云々」などと書いてある。いったいどんなものを食べて成長するとそういう論理の破綻した文章を書くことができるのだろう。ファシズムとかムッソリーニを知らないとか、人生と性の関わりのような哲学じみたテーマに興味がないのなら「暗殺の森」なんて観てないで「孤独のグルメ」でも観てろ、と書きたくなるので、そろそろこの記事を終える。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集