舞台の上と外の曖昧な線 / 「さらば、わが愛/覇王別姫」
楚漢戦争(紀元前206年〜紀元前202年)について詳しく知ったのは、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を読んだ中学生の時だと思う。項羽が虞美人に対して歌ったという垓下の歌の一節、「虞や虞や若を奈何せん」という言葉は、まだ世の中を知らない当時の僕にも印象的なセリフとして記憶に残った。
陳凱歌(チェン・カイコー)監督の1993年の映画「さらば、わが愛/覇王別姫」は、この項羽と虞美人の話を基にして、中国の現代史を背景にしながら、"愛すること"がテーマになっている作品だ。同年のパルム・ドール受賞作である。この頃のパルム・ドールは本当に名作が多い。
京劇で女を演じる者を旦と呼ぶのだが、豆子と呼ばれていた少年はやがて程蝶衣と名乗る立派な旦となる。この役を演じたのが張國榮(レスリー・チャン)だ。男にも女にも見える振る舞いで有名な歌手であり俳優だったが、その曖昧なところが本作の役にピッタリ合っていた。また、淨と呼ばれる男の役すなわち覇王(項羽)を演じたのが張豊毅(チャン・フォンイー)、映画「レッドクリフ」で曹操を演じていた人物である。
本作はこの2人が京劇の役者として成長していく過程において、北京の政治や社会が大きく変わっていく様子を描いている。国民党、日本軍、人民解放軍のように、いろんな勢力が北京に現れる一方で、京劇だけは変わらずに演じられている。こうした 現世/舞台 という区別のしにくい環境と、主人公の程蝶衣の 男/女 という両方の魅力が重なり合うように撮影されている。これは胡蝶の夢をはじめ、中国大陸で長らく維持されてきた伝統的な価値である。どちらが夢か現実か、なんてことが雲散霧消する境地を大陸の人たちは重んじてきた。そうしたノリが列島にも持ち込まれ「雨月物語」などに反映されている。
さて、張豊毅が演じた段小樓は娼婦の菊仙(鞏俐/コン・リー)と暮らすことになり、京劇を辞めて自堕落な生活を送ったりする一方、程蝶衣は現世を超越するように、舞台を降りても虞姫のように過ごしている。ここでは 淨/旦 という役割の差だけでなく、世俗/夢 の違いが明示されている。そしておそらく、これこそが、項羽/劉邦 の差として描かれたことだった。
日本軍と国民党が異なる振る舞いをしていたように、人民解放軍が来てからも文化大革命という大きな政争によって京劇、そして主人公たちは多大な影響を被る。舞台の外の世界が舞台を壊してしまったことが描かれ、そうした世情の中で、程蝶衣は現世を離れて夢の世界へ行くーー、という、虞美人そのものになったという話である。
歴史と漢籍を下敷きにして、それを見事に昇華させた名作だ。現代の中国大陸(香港を除く)ではベストの映画の一つだろう。このように、アメリカという多民族の国を例外にすれば、ほとんどの国の映画は、自前の文学を土台にしていることが多い。ここ3回の記事を見ても、「大人は判ってくれない」ならバルザック、「甘い生活」ならダンテ、「ベルリン・天使の詩」ならゲーテが参照されている。
文学を読まないのに映画の感想を書くなんて片手落ちである。そういう人たちは「シビル・ウォー アメリカ最後の日」とか「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」とか、新作映画の感想だけせっせと並べておけばいいだろう。
余談になるが、この映画の公開から10年後、主演の張國榮(レスリー・チャン)は鬱病に苦しんだ末にマンダリン・オリエンタル香港から飛び降りて自殺した。世俗を離れてしまった俳優なのだなと思って観ると、この役こそまさしく張國榮(レスリー・チャン)そのものだったと感じられる。