ジブリの光と影
近頃の列島では「クマ出没」が流行しているらしい。ここで想像力がキチンと備わった人ならば、すぐにこういう妄想をしないだろうか、すなわち、
『野生動物たちが見ているテレビ局では連日のように「また森林伐採!」「大工事の末にできたものは誰も走っていない林道」などと報じられ、ツキノワグマのクマ太郎さん(3歳)が山奥で眠ろうとしたところ、山菜採りと称する迷惑行為に驚いて飛び起きたら、数日後に射殺ーー』
たとえば、ある強盗が家に押し入り住人に出くわして「なんだテメェは!」と言えば、それはこちらの台詞だとなるだろう。動物たちの住処に勝手に乗り込んでいって、やれニュータウンだの、やれバードウォッチングだの、身勝手なことを言って動物たちをモンスター扱いするような感覚はおよそ知性と呼ぶことはできない。
宮崎駿監督の作品に不可欠と言われた高畑勲の監督作「平成狸合戦ぽんぽこ」はスタジオジブリの中で最も好きな映画だ。あっけらかんとした狸たちの織りなすトーンに隠されるように、この映画は人間の愚かさをじっと描いている。宮崎駿監督が光を描く監督だとすれば、高畑勲監督は「火垂るの墓」やこの映画を通して影を見つめていた。
「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台は関東平野におけるニュータウンの代名詞ともいえる多摩丘陵だったが、今や多くの日本人がニュータウンの出身であることはあまり知られていない。動物たちの住処を破壊して生存圏を拡げていくことが進歩であり開発とされたのだが、その実、鉄道会社と不動産屋の結託による金儲けに他ならないものだった。そういうところで菓子パンとスナックばかり食べて育つと「蜂が出た」なんてことが大事件になるほど、自己中心的な考え方の生物が出来上がる。つまり、宮崎駿監督が「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」で扱っていたテーマと表裏一体の映画である。
劇中で阿波狸合戦に因む「金長」というキャラが登場するように、徳島県ではタヌキがポピュラーな動物だ。徳島空港や土産物屋では金長まんじゅうが売られているし、徳島ヴォルティスのマスコットキャラクターはタヌキである。僕が夜間にクルマを走らせていると、ヘッドライトから逃げるように走り去るタヌキに出くわしたことは一度や二度ではない。
キツネやタヌキ、イヌやクマなどの人間にとって身近な動物は皆かつて神でもあった。そうした信仰が開発とともに薄れていき、やがて害獣などと呼んで動物を敵視してしまうのは、開発を推進する原動力が「身勝手」に他ならないからである。歴史を見れば、啓蒙や開発の名目でなされたことはおよそ強盗に近い。人間の知性はそうしたことを抑止する方にも使えるのではないか、ということを表現する時に、宮崎駿と高畑勲ではその仕様が異なっただけである。
あの可愛いタヌキたちにしてみれば、我々人間がモンスターである。そして人間の中には、「わたしたち」の都合を他者(あるいは他の動物)に押し付けるモンスターが大勢いる。そういう点で「一億火の玉」も「ニュータウン」も「自粛」も根本は同じなのだ。