悲しきキューバ移民の大暴れ / 「スカーフェイス」
1970年代に「ゴッドファーザー」や「狼たちの午後」などに出演してその演技力を高く評価されていたアル・パチーノは、ある日プロデューサーに「暗黒街の顔役」(1932年)のリメイクをやりたいと提案した。これが後にギャング映画の至高とも評される1983年の映画「スカーフェイス」だ。監督にブライアン・デ・パルマ、脚本は新進気鋭のオリヴァー・ストーンである。当初、オリヴァーはギャング映画に乗り気でなかったが、キューバ移民の話にしてはどうだろう、というプロデューサーの発案に飛びつき、コカイン中毒を断つためにわざわざパリまで出かけて行って脚本を書き上げたという。
キューバから追放されマイアミにやってきたトニー・モンタナ(アル・パチーノ)が麻薬王フランクの仕事を兄弟分のマニーと共にこなしながら成り上がり、やがてフランクを抹殺して美しいエルヴィラ(ミシェル・ファイファー)とビジネスを手中に収めるところまでが前半だ。
トニーのたどたどしい英語の発音は、キューバ系やスペイン語の話者の発音を参考にして練習したのだという。この"発音をちゃんと登場人物に合わせる"という努力について、アル・パチーノは「スカーフェイス」の前年に公開された「ソフィーの選択」でのメリル・ストリープの演技に影響されたと後に語っている。劇中、チェーンソーで切り刻むシーンが出てきて物議を醸したが、「悪魔のいけにえ」(1974年)へのオマージュだ。
さて、ボリビアの麻薬王ソーサとのコカインの取引で儲けていたトニーだったが、やがてコカインの過剰摂取で精神を蝕まれていく。この過程は同じくコカイン中毒で苦しんだオリヴァー・ストーンの実体験もあるだろう。ソーサの仕事を手伝うことになりながらソーサの配下を殺してしまい、妹と結婚したマニーも殺めたトニーは孤立無援のなか、ソーサの放った刺客たちに大量の銃弾を浴びせられるーー。
映画の序盤は兄弟分のマニーくらいしか頼る者のいなかったトニーが、ラストではマニーすらいなくなり、栄華を自ら台無しにしてしまう様は、人間らしい弱さゆえの結末である。しかし、「水滸伝」の宋江もそうだが、こうした世の中の底から這い上がってきた者に人間は同情するものだ。この映画がヒップホップのミュージシャンたちに多大な影響を与えたことも当然だろう。決められたレールのないところから成り上がる夢とその儚さを「スカーフェイス」は暴力とともに描いた。公開した当初は多くの批評家に酷評されたらしいが、そういう人たちの大半はレールの上を歩いてきたわけだから、トニーが不器用ながらも成り上がる生き様に全く共感できなかったのだろう。もちろんアメリカでは後に、いやこれは名作だ、という声が巻き起こり、アル・パチーノの代表作の一つに数えられている。蓮實重彦は本作を"「暗黒街の顔役」への冒涜"と評したそうだ。何を言っているんだ。本作はキューバ移民がギャングとなって成り上がる様を"露悪"に表現した作品なのだ。だいたい、顔の悪い男の書くことはつまらない。これは間違いない。
さて、トニーが破滅に至るキッカケとなったのはソーサとの関係だった。ソーサのモデルはボリビアの"コカイン王"と呼ばれたロバート・スアレス・ゴメスである。きっと映画にならなかった映画のような話が実際に山ほどあるのだろう。マイアミで成り上がったトニーに圧力をかけ、あっさり手下に殺させるほど、ギャングの世界とは衆寡不敵なのだ。トニーは殺しによってフランクの地位を奪ったものの、最後までギャングにはなれなかった。母親や妹を愛し、その歪んだ愛情はマニーの殺害にまで及んだ。ソーサの仕事を頼まれても、標的の娘を巻き込んでしまうことが許せず、暗殺者を撃ってしまった。不器用な移民に過ぎなかったのだ。
これはギャング映画の体裁をとっているものの、移民がアメリカでもがいた話である。トニーはギャング気質ではないし、ボスとなってからは孤独そのものだった。ラストシーンで撃たれたトニーにとって、あれしか救いがなかったのだ。
だから「スカーフェイス」とは、悲しい話なのだ。
そして、美しいミシェル・ファイファーを愛でる映画である。