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理想に生きる / 「ドクトル・ジバゴ」

優れた原作を映画にすることに情熱を傾けたデヴィッド・リーン監督が「アラビアのロレンス」の次に選んだ題材は、ソヴィエト連邦で発禁処分とされていたのでイタリアで出版されたボリス・パステルナークの名作「ドクトル・ジバゴ」だった。僕の父親はずいぶん気に入っていたようで、本作のVHSのビデオテープを購入していた。「戦場にかける橋」の話もよくしていたし、きっとデヴィッド・リーン監督のファンだったのだろう。

さて、「ドクトル・ジバゴ」の物語は内務人民委員部(NKVD)のイェヴグラフ・ジバゴ中将による回想という体裁をとっている。中将は母親が異なる弟ユーリとラーラという女の間に出来た娘を探している。このラーラのためのテーマ曲は、映画を観ない人でも一度は耳にしたことがあるはずだ。

いまやソヴィエト連邦を代表するような権力者となったイェヴグラフの思い出というかたちにすることで、ユーリという男が第一次世界大戦とその後のロシア革命によって人生を翻弄されつつも、自らの信じる愛を貫いたという"理想"の顛末を描いている。この映画は原作の小説にかなり忠実なので、あまり分けて考えなくても良い。本作の主人公ユーリは人への愛があり、不器用なほど真っ直ぐ生きようとするあまり、世間で言うところの浮気をする。なぜなら、ユーリにはトーニャという妻がいて大切にしているし、ラーラはパーシャという恋人と結婚したからだ。しかし、パーシャはボリシェヴィキの"ストレルニコフ"と変名して家族を顧みず、ユーリは疎開した先の村でラーラと再会する。
この物語が浮気だの不倫だのと言われない大きな理由は、ユーリの真っ直ぐな愛情、他人を慈しむ気持ちを誰もが理解するからだ。あるいは、映画やドラマにそんな難癖ばかり付けているような連中はこういう名作を観る機会も少ないのだろう。二月革命はともかく、ボリシェヴィキによる十月革命によってロシアの地は激変することになり、ユーリたち登場人物も僻村で貧しい暮らしを強いられることになる。ちなみに「レッドオクトーバーを追え!」に登場する最新鋭の潜水艦レッドオクトーバーとは、もちろん十月革命を示唆するネーミングである。
ラーラの母親の愛人コマロフスキー(ロッド・スタイガー)や、忠実なボリシェヴィキとなったパーシャなどの姿を通して、本作はロシア革命という騒動を批判している。当然のことながら、赤軍だけでなく白衛軍(white forces)もパルチザンも、みんなで大騒ぎしてロシア人に迷惑なだけだという視線である。これを著名な詩人であるパステルナークが出版しようとしたのだから、発禁も仕方のないことである。イタリアで出版された翌年、パステルナークはノーベル文学賞を一方的に授与された。ソヴィエト連邦が受賞を辞退するよう強要したからである。ちなみに、現代のロシアでは「ドクトル・ジバゴ」は学校で若者たちに教育されている。これが政治である。日本の小説家たちは国から勲章をもらって喜んでいるような三流だらけであり、我が国に"作家"はいないという証拠である。
さて、このようにロシアが大きく変わろうとしたなかで、ユーリは自らの寿命を縮めてしまった。これは"人を愛する"という根本の理想が政治のなかでどのように破られてしまうのか、ということを示唆している。神秘主義とも思えるようなユーリのどこか浮世離れした佇まいによって、政変という事態の"くだらなさ"を表そうとした作品だ。僕の父親もきっとユーリの純朴さに魅かれたのだろう。
理想はロシアの大地でどのようになるのか、という点において、「ドクトル・ジバゴ」という作品は「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャを思い出させる。あるいは、ジバゴはインテリではあるものの「白痴」のムイシュキン公爵のような人物でもある。ロシア人は国家がソヴィエトとなったことで多くのことを失ったのではないか、ということを表すために、NKVDの高官が人探しをしているという設定になったのだ。
物語の最後にイェヴグラフは、ターニャというバラライカの演奏が上手な娘に向かって"then it's a gift!"(それなら、親から受け継いだね!)と告げる。周りがどんなに変わろうとも血だけは正直だという生物の真実を告げることで、愛や親子というものは、政治や価値観のように右往左往するものではないという指摘をしている。
文句のない名作である。ただし、200分は長い。もしこれが150分に編集されていたら、この年のアカデミー賞の作品賞は「サウンド・オブ・ミュージック」ではなく「ドクトル・ジバゴ」が受賞していただろう。
ちなみに、インフレ率を含めて計算すると「ドクトル・ジバゴ」は歴代の映画で9番目に興行収入の高かった作品である。もちろん首位は「風と共に去りぬ」だ。今から60年ほど前の人たちは、スマホもTikTokもないかわりに、素晴らしい映画をたくさん観ていたわけである。

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