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キリアンがもったいない / 「オッペンハイマー」

はじめに書いておくと、僕は学生の頃、物理学(特に量子力学)を専攻していた。また、NHK「映像の世紀」を見ていたから、オッペンハイマーが自らのことを"the destroyer of worlds"と語る映像も強く印象に残っている。
しかし、僕は"映画は映画"だと思っているので、事前の知識は全て横に置き、クリストファー・"客寄せパンダ"・ノーラン監督の2023年の映画「オッペンハイマー」を観たものの、180分の間ずっと本作の特報を見せられているような気になった。
つまり、頻繁にシーンを移しすぎているため、まるでミュージックビデオである。しかも戦後と戦前の話を行ったり来たりするので、どのエピソードにも、どの登場人物にも焦点が定まらず、オッペンハイマーという人物を描く映画であるにもかかわらず、どんな性格なのかすら判然としないまま物語は進行する。明らかに注意欠如・多動症(ADHD)の症状だろう。僕は以前から、ノーラン監督は人物を描くことができないから時系列を操作したり"科学"を持ち出してみたり、物語よりも手段にこだわっていると指摘してきたが、本作においてノーラン監督はその欠点を見事に露呈したと思う。

この映画を観てもオッペンハイマーという男が"何をしたか"という点が見えるだけで、"どのようにそれをしたのか"という線が全く見当たらないのだ。それはそうだろう、これだけシーンを往来すれば、線など切れてしまうし、ノーラン監督は人生の線が見えない人なのだ。たとえば、椅子に腰掛けて妻とゆっくり話をするシーンがあっただろうか。不倫した女への愛情が芽生えた経緯を描いただろうか。原爆を開発するという"科学"と、大量虐殺になるという"倫理"の狭間で、どのように苦悶していたか観客に伝わっただろうか。しかし、見えない人に見ろと言っても詮無いことである。
前回の「博士の異常な愛情」の記事で書いたように、科学と倫理が対立するのだから、ストレンジラブ博士のような極論に対して有効な反論の根拠があるのかよ、という批判がキューブリック監督の主旨だったし、オッペンハイマーはまさにそれを一身で体現した人物であるにもかかわらず、ノーラン監督の手に負えるテーマではなかったということだ。
コロナ騒動のせいで世界の人たちはいろんな娯楽から遠ざけられていたため、この年の映画業界は「バービー」と「オッペンハイマー」一色だった。バーベンハイマーという造語をこしらえて宣伝し、そのおかげで本作も異常な興行収入を記録したのだが、こんな映画を絶賛する人は求職活動中の映画ライターか、新作映画の感想を投稿してアクセス数を増やしたい人だろう。
「ダークナイト」という「ヒート」のパクリによって実力以上の注目を浴び、映画会社がその名を看板のように使うことで、おそらくノーラン監督は自分の能力を越えている世界に行ってプレッシャーで疲れている。ユニバーサルは大ヒットして大喜びしたに違いないが、製作費に1億ドルもかけてこの出来はいただけない。押井守監督が指摘したように、まさに"巨大事業"であって、観客の心に残る映画では決してない。
さて、はじめに書いたように、僕は"映画は映画"派なので、現実とはここが違うなどと野暮なことを言う気もないし、原爆を落とされた国だからどうのという感情論も好きではない。そもそも昭和20年の夏まで継戦している方がバカなのだ。
核分裂、あるいは強い相互作用の発見という科学の達成が兵器に直結することは当然であり、これからもコンピュータと人体など科学と倫理の境界線で必ず問題が発生するのだから、「オッペンハイマー」ではそうした良心の呵責と名誉欲の狭間に立つ男をじっと見つめてほしかった。キリアン・マーフィーの演技しか褒めるところのない映画である。

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