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反省とはとても難しいこと / 「ライフ・イズ・ビューティフル」
Fat, fat, ugly, ugly, all yellow in reality. If you ask me what I am I answer, 'Cheap, cheap, cheap.' Wailing along I go, 'Poopoo'. Who am I? Tell me true.
(デブ、デブ、ブス、ブス、本当は黄色。私は誰かって訊かれたら、安っぽくてペラッペラって答えるよ。歩きながら、うんちブリブリ。私は誰、言ってごらん)
映画は現実という土台の上に成立する。1997年の映画「ライフ・イズ・ビューティフル」(原題は La vita è bella)において、主人公グイドが唯一答えなかった上掲のなぞなぞ(英訳)は、『我が闘争』を読んだ人なら正解を即答できる。ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「暗殺の森」のラストシーンの後、イタリアの北部はイタリア社会共和国となり、グイドたちが暮らすアレッツォの街もナチスの実質的な支配下となった。映画の序盤において、黒シャツ隊と思しき登場人物に対して「政治家は誰を支持してるの?」とグイドが質問したことはもちろん嫌味にもなるジョークであるが、日本の観客の大半はそのジョークも、グイドが何度も拝借する"黒い"帽子の意味も分からないだろう。映画はあくまでも現実から生まれるのだから、歴史などの知識がなければこうした映画を"ちゃんと観る"ことはできない。つまり、ある人にとって意味があることは、他者にとって意味をなさないということが、静かに映画の全篇を通して伝わってくる。
ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」をパロディにしたようなシーンも序盤に登場し、イタリアと戦争の歴史をユダヤ人の目線から眺める構成になっている。ロビンフッドといいショーペンハウアーの哲学といい、いろんなヨーロッパのアイテムをこれでもかと詰め込んだことで、なぜ、ドイツやイタリアというヨーロッパを代表する国において、あのように全体主義の"訳の分からないロジック"が通用するようになってしまったのか、という問いが現れている。ドイツ語圏であれば戦後に社会学や政治哲学を通していろんな自問自答がなされてきたものの、アイヒマンの裁判でも露呈したように、要するにドイツ人らしい生真面目さに基づいていたという身も蓋も無い事実がそこにあるだけだろう。劇中でもレッシングは、ドイツ人としても、グイドの友人としても、生真面目に振る舞っていた。それに対してイタリア人は、ベルトルッチ監督であれば"付和雷同だ"(il conformista)と評するだろうし、ロッセリーニ監督やフェリーニ監督も似たような視点からイタリア人を描いていた。
ただ、本作はあくまでもグイドというユダヤ人がナチスと向き合う構成になっている。しかし、劇中の会話に登場する多くのヨーロッパの遺産たちを通して見れば、本作の本当のテーマは"人間が人間らしく生きることとは、どういうことか"であろう。ナチスはひどい!なんてバカでも言えるし、それでは何も反省したことになっていない。今日のガザ地区を見れば良い。ナチスの軍人たちは良きパパであり、命令に忠実(逆らえば軍法会議)である。そしてユダヤ人を蔑視する政策を半ば忖度のように遂行した。アドルフ・ヒトラーはユダヤ人を虐殺しろという行政文書を発効していない。このような全体主義のロジックは当時のナチスでは有効であり、ユダヤ人や後世の人たちにとっては"バカげたこと"である。この意義の差を生み出すものは、一体何であるか。言い換えると、戦時に特定のロジックが政府によって意義を与えられてしまうという恐ろしさは、日本人こそが本当に反省すべきことであろう。ところが、一億火の玉や玉砕の後にやってきたものは"がんばろう東北"だの"自粛"だの、相変わらずのプロパガンダである。本作のことを「希望を捨てない感動作!」などと書いている連中は、つい先日まで"ファイザーのワクチンが優秀!"だの"感染対策が不十分!"だの、妄言を吐いていたのだ。これは、物事の意義は立場や知性によって異なるという残酷な事実に基づいている。なぜ右を向いたんだ、みんなが右を向いたから、という大衆の恐ろしさとも言える。問題は、ナチスがどうの、ではないのだ。全体主義を生み出し、支持したのもまた人間だということだ。
メル・ブルックスをはじめ、全米で活躍する多くのユダヤ系のコメディアンたちは「ライフ・イズ・ビューティフル」を評価することはできない、と批判した。それはそうだろう、身内が大勢殺された出来事を"ゲームだ"と語る主人公グイドは、ホロコーストを"語る"資格がないという指摘は正当である。しかし同時に、現在死海の周辺で起きている事態もまた、健康なロジックから生まれたものだろうか。
グイドのような、あるいは劇中でも言及されるショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung)として、ロベルト・ベニーニのコメディはギリギリのところを攻めたと思う。人間はすぐにバカげたことに正当性を見出してしまうほど賢くない生き物だから、一党独裁させてしまうし、実は無意味なことに意味を勝手に付与してしまう。そうしたことを笑いに変えようとして、ホロコーストを題材に選んだことは挑戦でもあり、コメディアンとして話題にもなりたかったのだろう。
ベルトルッチ監督は1970年に「暗殺の森」を公開している。ドイツに限らずイタリアでもファシズムを撮ることはインテリの責務のようなものだった。さて、日本人は黒澤明監督と大島渚監督を敬遠し、気付けば誰も映画を観なくなった。およそ反省ということをする能力がない国民だと断じて構わないだろう。