どこまでリアルに描くか問題 / 「遠すぎた橋」
僕はいつも映画を観るとき、ボーッとオンライン配信サービスのサイトを眺めて、この映画にしてみよう、というノリで作品を決めている。毎日観るわけでもない。ただの"映画好き"であって"映画マニア"ではない。だから有名な作品でも観ていないものは多々ある。アメリカやヨーロッパの有名な俳優をかき集めて撮影された1977年の大作「遠すぎた橋」も、つい先日はじめて観た。正確に言えば、こんな映画があることも知らなかった。知っていればもっと早く鑑賞していただろう。1962年の映画「史上最大の作戦」の原作者、コーネリアス・ライアンの著書「遠すぎた橋」が原作であり、どうして「史上最大の作戦」のような知名度がないのだろうと思ったのだが、鑑賞してすぐにその訳が分かった。これは映画でありつつ、ノンフィクションすぎたのだ。
あらすじも何も、これは連合軍によって1944年9月17日から開始された「マーケット・ガーデン作戦」のほぼ正確な劇である。日本人がこの映画を観るならば、せめて第二次世界大戦におけるヨーロッパの戦史の概要は頭に入れておくべきだろう。アメリカ軍、イギリス軍、ドイツ軍を中心に、各都市の状況をかなり正確に各シーンで描写しているので、いわゆる主人公は存在しない。それでも、イギリス軍の幹部にショーン・コネリー、マイケル・ケイン、アンソニー・ホプキンス、アメリカ軍にロバート・レッドフォードやジェームズ・カーン、他にもジーン・ハックマンやローレンス・オリヴィエなど、錚々たる面子である。アンサンブル・キャストはウケない、という説が正しいとしても、本作はこれら名優たちの若かりし姿を見るだけの価値はある。
まず、この作戦は大失敗に終わっている。その原因はイギリス陸軍のモントゴメリー元帥によって立案された本作戦が無茶だったからであり、この映画にもモントゴメリー元帥は名前しか登場しない。欧米の観客たちにとって、失敗に終わった作戦を映画で観たくないという心理がはたらくことは理解できる。それにもかかわらず、アッテンボロー監督がノルマンディ上陸作戦ではなく本作戦を監督したのは、イギリス陸軍の無茶な作戦によって多くの人命が無駄に失われたことへの問題提起だろう。
また、ナチス・ドイツの軍隊や武装親衛隊のこともしっかりと描いていた。この"フェア"な視線もまたIQの低い観客には受け入れがたいものだろう。勝った勝ったと言いたいのだから、「史上最大の作戦」や「ダンケルク」を観て、ナチスざまあみろという気分に浸りたい人が多いのだろう。マーケット・ガーデン作戦に限らず、ナチス・ドイツはあれだけ戦線を広げておきながら各地で善戦したことは特筆に値する。ナチスの幹部たちの人情味を描いたシーンなどは、戦後の欧米の映画ではかなり珍しい。連合軍もナチス・ドイツもみんな同じ"人"だという視線は「プライベート・ライアン」のような主人公型の映画では実現できない。
さて、東日本大震災や、コロナなど、こうした出来事について大騒ぎしている日本人のうち、いったいどれだけの人が、日本軍の作戦名を1つでも言えるだろうか。日本軍がどこで何をして、どれだけの若い人命が失われたか、知っているだろうか。そうしたことを何も知らないから、たかが地震や流行病で騒ぐのだろう。軍人とその関係者だけで200万人以上が主に海外で死んだのだ。しかも、その半数以上は餓死である。民間人を含めると死亡者は300万人を越える。そしてこれは天災ではない。責任者がいるのだ。巣鴨で数人が連合軍によって絞首刑に処されたら、それでおしまいになるような話ではない。
「遠すぎた橋」のような映画を観ていると、僕はいつも考える。こんな風に、日本軍の失敗した作戦について、有名な俳優をたくさん集めて、全国の東宝シネマで公開するような映画が製作されるだろうか。バカな、無謀な命令で殺された人を"英霊"と呼んで悦に入っている連中は、そもそもそんな命令がなければ英霊は戦後に生きていたということから逃げている。なぜもっと早く停戦を決断できなかったのか、そういう検証こそ敗者がするべきことだ。昭和天皇について触れたくないからと映画も小説もこういう話題を避け続け、「永遠の0」だとか「男たちの大和/YAMATO」のような"演歌"だけ製作した結果、ついに国民のほとんどが戦史の概略すら知らないような国家が出来上がった。こうなったことで誰が得をしたのか、そういうことを考えてみてほしい。