現実とは妄想の塊 / 「シャッター アイランド」
たとえば、ある人にとって不快な人物がいたとしても、その者にはだいたい伴侶がいるように、世界というものは個々人で見え方が異なっているのだが、そのことについて人はつい忘れがちである。世界を現実(reality)という言葉にしてもいい。五感の性能も、脳の回転数も、あらゆる器官の性能がバラバラなのだから、本来は意見の一致だとかコンセンサスというものでさえ仮初のものに過ぎない。ましてや、相手を"理解する"なんて、いったいどれだけの飛躍が必要なのだろうか。
こうした「現実」というアイディアの常に不安定な状態について、マーティン・スコセッシ監督の2010年の映画「シャッター アイランド」はとても良いヒントをくれる。本作も今日まで続くレオ様とスコセッシのコラボである。原作は2003年に出版されたデニス・ルヘインの同名の小説だ。ルヘインが原作の映画なら以前に「ゴーン・ベイビー・ゴーン」を取り上げている。
舞台は1954年、ボストン湾に浮かぶシャッターアイランドの精神病院に、連邦保安官のテディ(レオナルド・ディカプリオ)とチャック(マーク・ラファロ)が行方不明者の捜索にやってくるところから物語は始まるーー。
とても示唆することの多い映画なので、あらすじは省略する。もし観ていない方がいればぜひ観てほしい。
僕は初めて本作を観た時、途中から違和感があったものの、ほとんど最後までテディというデッチアゲに気付かなかった。一部ではなく、全てそうだったのかとのけぞったわけだが、こうしたプロットや演出を楽しんだ上で「妄想って怖いですね、終わり」と"安定した世界"から短絡的な結論を言ったとしても、それこそ思い込みではないですかとルヘインは読者に投げたわけだ。妄想と思い込みはどちらも delusion である。
たとえば、本作のラストシーンにおいてアンドリューは健全あるいは正気(sanity)だったと見えるように撮られているが、おそらくそれは精神薬の治療に伴う一過性のものだろう。しかしその一過性のなかで本人は自らを断罪することにした。数年前まで大騒ぎしていたことについて、今日そのことを妄想だったと言える人がどれだけいるだろうか。人というものは、じぶんを狂っていると思っていないし、思いたくないし、じぶんの考えていることが思い込みあるいは妄想に過ぎないと認めることはなかなか出来ないだろう。だからすぐに他人や政府のせいにして逃げ出すのだが、何のせいであれ狂った行動をしていた事実は消せない。このように、コロナ騒動に限らず、ほとんどの人はいろんなことに関して、思い込みに基づいてモノを言ったり行動しているものなのだから、この「現実」というものは正気の沙汰ではない。アンドリューが正気になった、というのはたとえ話であって、正気に戻っていないように生きている人ばかりではないですか、ということが主旨だ。
じぶんのことだけは別、と思いたいのが人の性だからこそ、そういう性を自覚しておくためにも映画はとても役に立つ。