これが作品賞なのがアメリカの強さ / 「夜の大捜査線」
たとえば「差別は良くないことなので映画や小説でそのことに触れるのはやめましょう」とアメリカで言ったら袋叩きにされてバカ扱いされるだけだろう。日本が"臭いものに蓋"をする国民性であることは、映画から小説、漫画に至るまで、あらゆる"差別表現"を自主的に設定し、人の目に触れないようにしてきた事実からよく分かる。ハリウッドで山のように制作されてきた黒人差別を扱う映画は、黒人を差別するために撮られたものだろうか。なぜ、日本人はあたかも差別などないかのように、それについて触れないという選択肢を好んだのか。それは、苦情が来るから、ということを言い訳にして実質的な"検閲"をしておけば、議論をせずに済むからだ。では、なぜ議論することから逃げるのか。議論するということは、こちらの意見と相手の見解が異なるということだからだ。日本人は生まれた時から周囲と同化するよう"教育"されているのだから、他人から反対意見が表明されそうなことを言わないよう出来上がっている。つまり、差別語がどうの、差別の表現がどうの、こうした言い訳はただの検閲と同じことである。何かを表現することの対極にある発想だ。メディアが自主的に検閲しているのだから世話はない。
1967年の映画「夜の大捜査線」(原題は In the Heat of the Night)は、ミシシッピ州を舞台に黒人差別を正面から描いた作品だ。当時は New Hollywood の前夜であり、本作も差別というテーマを扱うドラマでありながら、コメディにも見えるよう撮られている。今日ではよく見かけるようになった手法だが、当時こうした調子の映画は珍しいものだったろう。
主人公の刑事ヴァージル(シドニー・ポワチエ)は、母親の家からフィラデルフィアへ戻る途中、ミシシッピ州スパルタでとある殺人事件をなぜか担当することになってしまいーー、というシンプルな筋書きである。
黒人だからという理由で差別する風潮は特に南部ほど強かった。これには歴史の経緯があるのだが、ハリウッドの映画で何百回も描かれたことだから知っている外国人も多いだろう。優秀なヴァージルがミシシッピ州の白人にとっては暴力の対象になるという現実を見せることで、観客に差別する心について再考するよう促している。本作の2年後に撮影された「イージー・ライダー」において、主人公たちを迫害したのもミシシッピ州やその周辺の住民たちである。「夜の大捜査線」ではヴァージルという1人の黒人を通して差別を見つめているが、1988年の映画「ミシシッピー・バーニング」は白人によるKKKなど、より俯瞰する視点から撮っていた。
シドニー・ポワチエは1963年の映画「野のユリ」の演技で、黒人として初めてアカデミー主演男優賞を受賞した。「招かれざる客」もポワチエの代表作だろう。こうした先駆者が議論を呼び起こしながら活動していたからこそ、Black Lives Matter などの運動につながっている。ちなみに「夜の大捜査線」はアカデミー作品賞の受賞作である。
さて、日本列島は差別を"表向きは存在しない"ことのようにしてしまったのだから、また同じミスを犯すだけだ。初期のコロナの患者がどんな目に遭ったことか。ワクチンを打たない者、感染対策に応じない者、こうした主権者としての自由をどのように日本人が"迫害"したか、よく覚えているだろう。周囲と同化するような教育とは、それこそが検閲である。つまり、日本人は自ら検閲するような者を育て、周囲と"そぐわない"者を排除する気質がある。これは一種の精神病みたいなものだ。
僕はワクチンなんか一度も打たなかった。なぜなら、政府が推奨することにろくなことはないという歴史の事実を知っているからだ。では、日本の映画で政府をバカにする作品がいくつあるのだろう。これが検閲の成果である。