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マーロンはモシャスを唱えた / 「波止場」

You don't understand. I coulda had class. I coulda been a contender. I coulda been somebody, instead of a bum, which is what I am, let's face it. It was you, Charley.
(あんた分かってない。俺はいっぱしの人間になれた。俺はタイトル挑戦者になれた。こんな今の俺みたいな役立たずじゃなくて、それなりの奴になれたんだよ、ちゃんと受け入れろよ。あんたのせいなんだよ、チャーリー)

Terry Malloy

1954年のアカデミー賞を各部門で獲得しまくった映画「波止場」は、主演のマーロン・ブランドによって全てが浄化されたような作品だ。上掲のテリーの言葉は現代でも映画史に残る名セリフとされ、このセリフが生まれた車内のシーンで俳優を志した者も少なくない。アル・パチーノは"映画館で立てなくなった、こんな演技は見たことがなかった"と後に思い出を語っている。
「波止場」の物語そのものは至って簡潔なものだ。かつて沖仲仕と呼ばれていた港湾労働者の仕事にはマフィアが付物という時代が長く、主人公のテリー(マーロン・ブランド)はボクサーだったものの八百長によって選手生命を絶たれ、兄がマフィアの右腕として働いている港へやってくる。港を管轄する行政の委員会はマフィアを排除しようと証人を求めているものの、証言しそうな者をボスのジョニーが殺していた。やがて兄が窮地に陥り、テリーは証言をしてボスと対峙することを決意するーー。
マーロン・ブランドといえば映画「ゴッドファーザー」で演じたヴィトーが有名だが、「波止場」でのテリーも「地獄の黙示録」でのカーツ大佐も素晴らしい演技である。

On the Waterfront
Apocalypse Now

マーロン・ブランドの演技とは、本人を消してしまう技だ。映画「波止場」を観ていると、他の役者たちの演技に混じってテリーという人間が本当に存在しているように感じられる。「ゴッドファーザー」に多くの観客が魅了される理由とは、スクリーンのなかにいるヴィトーがマーロン・ブランドではなくヴィトーという本物のマフィアにしか見えないからだ。これは技術の問題ではなく、マーロン本人が生まれもっている天性である。
たとえば、アル・パチーノやロバート・デ・ニーロはどちらも技術が卓越している俳優である。マーロンはそうした憑依や自然体ということではなく、役に化けてしまうのだ。いわば狸か狐である。表情がどうの、仕草がどうの、そんなレベルの話ではなく、これは天賦の才に他ならない。威厳やカリスマで注目を浴びるケネス・ブラナーは本人の魅力を発揮する才能に恵まれているが、マーロンはマーロン本人が消えてしまう。こんな俳優は他に見当たらない。
車内のシーンでのマーロンがあまりにも鮮烈な印象を残したため忘れられているものの、マーロンの隣で兄のチャーリーを演じていたロッド・スタイガーも本作の後に名優として活躍した。このnoteで紹介した映画でいえば、1965年の「ドクトル・ジバゴ」でコマロフスキーを演じ、1967年の「夜の大捜査線」でのビル署長の演技でアカデミー主演男優賞を受賞している。
演技とは何か、なんて大上段に構えた話をしてもあまり意味がないだろう。絵空事の脚本を舞台かカメラの前で演じてみせ、それが真に迫っているほど観客は"演技が上手い"と言う。ダスティン・ホフマンやキリアン・マーフィのように、役にほぼ成りきっていると感じさせる技術と本人の魅力という二項の足し算によって俳優という職業は成り立っている。いくら技術があろうと、またそうした技法を詳しく語れるようになっても、本人に魅力がなければ意味がない。しかし、マーロンは真に迫るのではなく、真になってしまう。アンソニー・ホプキンスは「波止場」の車内のシーンについて"息を呑んでしまう"と評している。名優だからこそ、マーロンが完全にテリーになっていることに気付くのだろう。
アル・パチーノは「波止場」について、"筋書きよりマーロンだけに集中していた"と語っているが、僕も同感だ。この映画はマーロン・ブランドがテリーに"化けた"作品である。それ以上に語るべきことは特にない。

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