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心の中から戦争は生まれる / 「戦場のメリークリスマス」
They were a nation of anxious people. And they could do nothing individually. So they went mad, en masse.
(日本人は不安障害の種族なんですよ。そして個人では何もできない。だから集団になって、トチ狂うんです)
黒澤明や溝口健二の後、戦後の日本映画の金字塔といえば大島渚監督「戦場のメリークリスマス」だろう。製作費を負担すると言っていた松竹にハシゴを外され、大島が全財産と借金によって足りない製作費を賄ったという、芸術家らしい経緯によって世に出た傑作である。
この映画は、いわゆる"日本人"が撮った映画とは思えないほど、臭いものに蓋をすることなく真っ向勝負で切り込んだ作品だ。同性愛はもちろんのこと、外国人への嫌悪、障害者への差別、虐待といじめ。建前という名の隠蔽が得意な日本人は、こうした当たり前の問題から目を逸らして生きているため、本作のようにドーンと表現されると面食らう人が多いのではないだろうか。
坂本龍一が演じたヨノイ大尉はセリアズ(デヴィッド・ボウイ)に魅せられ、部下に「あの男は隊長殿の心を乱す悪魔です」と指摘される。ところが、人間は軍人である前にヒトである。このストーリーの発端も、朝鮮人の軍属カネモト(ジョニー大倉)が捕虜を犯した事件である。軍隊という男だらけの組織において、性が心を乱す悪魔となることは当然ありうるし、そもそも男同士の好き嫌いというものは、ホモとまで至らなくとも、どこか性の魅力に基づく判断である。セリアズはなぜヨノイ大尉にキスをしたのか、などという質問をインターネットでよく見かけるが、頑ななヨノイ大尉の態度が愛おしくなったから、の他にどういった理由があるのか、ぜひ教えて欲しいものだ。
ジョニー大倉は父親が朝鮮人の軍属だったという。当時の朝鮮は大日本帝国であり、セリアズやローレンスなどイギリス軍は敵である。国境と政治によって、人間が敵と味方あるいは中立国に分けられてしまう理不尽がここにもある。日本兵にせよイギリス兵にせよ、相手を敵だと言われたから攻撃しているのであって、よほど虐待や苦役でも経験しない限り、互いに何か恨みがある訳でもない。ところが、相手が"敵"である理由について、多くの政府は国民に嘘をつくから問題なのだ。「戦場のメリークリスマス」の舞台はジャワ島だったが、外交の失敗と戦線の目論見の甘さを"大東亜が日本の生存圏"なんて寝言で誤魔化すことは、フセイン大統領が邪魔になったから"イラクに大量破壊兵器がある"と言うに等しい。送られる兵隊の身にもなってほしい。
本作は"戦争映画"だが、戦闘シーンは一切ない。銃弾という物体を撃ち込まなくても、嫌悪や差別といった心のあり方こそが戦争のようなものだという大島監督のメッセージだと僕は受け取っている。
最後のシーケンスでハラ軍曹(ビートたけし)がローレンスと2人で話している時、坂本龍一の作曲した Merry Christmas, Mr. Lawrence が静かに流れる中、カメラは部屋の天井から2人を見下ろすようなアングルになった。これは劇中でハラ軍曹が冗談めかして言っていた、ファーゼル・クリスマス、すなわち神の目線である。
敵味方の区別が無くなったのではない。大日本帝国は敗戦し、そして勝者によって裁かれる。それが現実の世界であり、神からの贈り物として、2人が互いの立場を理解する瞬間が与えられたのだ。イギリス軍は勝ったが、それはローレンスがハラ軍曹に勝ったことを意味しない。ハラ軍曹がローレンスを捕虜にしていた時も、それは大日本帝国がジャワ島において優勢だったからである。2人の男は、大きな力の中で翻弄され、そして別れの時になってようやく友人になることができたというプレゼントである。なぜなら、ヨノイ大尉はセリアズの遺体から髪を切って持ち帰ることしかできないまま処刑されたからである。
ローレンスはハラ軍曹に There are times when victory is very hard to take. (戦いに勝つということを受け入れがたい時があります)と告げる。今や友人だから、ハラ軍曹が敗者として裁かれることを受け入れがたいのである。だからこそ、意気揚々としたハラ軍曹の笑顔のラストシーンが、いろんなことを理由にして互いにいがみあうことのバカバカしさをハッキリと伝えているのだ。