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【超解説】 「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

まるでこちらの知性と感性を試しているような、いろんな解釈が出来る映像や筋書きを駆使する面倒くさい監督といえばイニャリトゥであることに異論はあまりないだろう。もちろん、イニャリトゥは観客に謎かけをしている訳ではない。監督が悩み考えて映画にしたことを通じて、観客にも楽しみながらいろんなことを考えてほしいというサービスだ。ところが2ヶ月ほど前に「バルド、偽りの記録と一握りの真実」を薦める超解説を書いたのだが、そもそも本作を観ている人が少ない上にファンも多くないらしく、あまり閲覧されなかった。

そこで今回はアカデミー賞の作品賞を受賞した2014年の作品「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」について超解説する。これなら観た方も多いだろうし、何いってんのアンタ?みたいな感想が散見されるので、何かの参考にしていただければ幸いだ。
本作の主人公リーガン(マイケル・キートン)は1989年から1992年にかけて「バードマン」と呼ばれる大ヒットした三部作に主演したものの、近頃はまるで注目されていない。心の中にその"バードマン"が住んでいて、たまにリーガンの眼前に現れてはハリウッドの超大作映画に出演しようと呼びかけてくる。そこでリーガンは名声を取り戻すべく、レイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」をブロードウェイで上演することする。友人のジェイクにも製作費を出してもらい、リーガンの恋人ローラや新人のレスリー(ナオミ・ワッツ)などに出演してもらい、ヤク中の娘サム(エマ・ストーン)にアシスタントを頼む。代役が必要となり、レスリーの恋人であるマイク(エドワード・ノートン)がやってくる。ところがマイクは気まぐれな性格で、プレビュー公演をぶち壊してしまい、リーガンは気が滅入る。マリファナを吸っている娘サムを注意して口論になる。最後のプレビュー公演の時、マイクとサムがキスしているところを目撃したリーガンが外へタバコを吸いに出ると、非常口の扉に衣装が挟まってしまい、リーガンは下着だけでタイムズスクエアを歩いて劇場へ戻り、なんとかプレビュー公演を終える。サムはリーガンの演技を気に入り、インターネットで下着の姿がバズっていると教えてくれる。リーガンがバーへ飲みに行くと、影響力のある演劇評論家であるタビサがいる。タビサはリーガンに公演を kill (ぶった斬る)すると告げる。リーガンが翌日、ひどい二日酔いで歩いて劇場へ向かう途中、心中のバードマンが現れ、公演を止めてバードマンの四作目をやろうとそそのかす。
公演の初日、万事うまく進行する。リーガンは衣装室で、訪れていた元妻のシルヴィアに、何年か前に海で溺死しようと試みたことを明かす。シルヴィアが去ると、リーガンはラストシーンに向けて模造の銃を実銃と取り替える。そして舞台の終幕でリーガンは頭に向けて発砲する。血が飛び散ってリーガンは倒れ、スタンディングオベーションに包まれるなか、タビサはそそくさと劇場を後にする。
リーガンが病室で目を覚ますと、どうやら鼻だけを吹き飛ばしたらしく、その鼻も手術によって復元されている。新聞にはタビサが書いた The Unexpected Virtue of Ignorance と題された好意的な記事が掲載されている。娘のサムはTwitterで大人気だとリーガンに教えてくれる。サムが部屋を出ていくと、リーガンはバードマンに別れを告げ、病室の窓から出ていく。サムが病室に戻り、あわてて開いた窓から地面を見て、それから空を見上げると、サムは微笑むーー。
あらすじだけで長くなってしまったので、さっさと書く。
まず、この映画はレイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」を読んでいないと、何を演じているのか分からないはずである。この記事が長くなると面倒なので、ウルトラざっくり書くと、二組のカップルつまり四名の大人が"愛"というテーマについて語る、だけの小説だ。村上春樹が好きな小説なのだから大したことはない。この小説のなかで、一人の女が以前の恋人について話をする。エドという男は女を虐待するような奴で、女をぶったりして愛を表現していたが、やがて自殺未遂をし、ついに二度目で死んでしまうと語る。
このエドからインスパイアされたキャラクターがリーガンである。エドにとって愛とは女を虐待するというカタチをとった。そんなの愛じゃない、という方も多いだろうが、そのように"愛"というカタチのないことについて各人は感覚が全く異なる。リーガンは本作において名声を取り戻したいと願って登場した。ところがその名声もまた、バードマンのような大ヒット作品なのか、あるいはブロードウェイの演劇のようなものなのか、人によって様々だ。それに、リーガンは別れた妻も愛しているし、娘サムとの関係も常に修復したいと願い続けていた。
映画の冒頭と最後にレイモンド・カーヴァーの書いた一節が引用されていたことに気付いた方もいるかもしれない。

And did you get what
you wanted from this life, even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved, to feel myself
beloved on the earth.
(しかし、おまえはこの人生で望んだものを手に入れたかい?)
(ああ)
(何を望んだのさ?)
(この世で俺は愛されていたと、そう感じるとじぶんで言えることさ)

Raymond Carver

公演初日に元妻と会話し、リーガンは満足したのだ。そこにはもはや名声など気にしておらず、シルヴィアやサムといった身内と向き合うリーガンという一人の男がいただけだ。バードマンがどうのなんてことは、どうでもいいことだ。
「愛について語るときに我々の語ること」において、エドは二度目の自殺も未遂に終わりそうだったものの病室のベッドで死んでいる。本作において、二度目の自殺未遂となったリーガンもおそらく病室で事切れているはずである。つまり、病室のシーケンスは"夢"だ。リーガンは文字通り、自殺に成功したのだ。
それを劇中でタビサは The Unexpected Virtue of Ignorance と表現していたが、これはイニャリトゥ監督の人生の哲学でもあるだろう。つまり、多くの映画とは異なり、我々は常に自分の人生について不案内(Ignorance)なまま、毎日を生きていて、そこには編集も何もない、ということだ。だから本作はほとんどのシーンがワンカットで撮影されているように見せる手法が使用されている。誰もが、次に起こること、誰かが何かをすることについて Ignorance の状態なのだから、マイクを呼んでプレビューが荒れたことも、下着姿でバズったことも、全てありのままを受け止めよう、だって人生に編集は無いのだから、というメッセージでもある。文字通りに受け取れば、ブロードウェイのことを何も知らない元スター俳優の手法が Ignorance (無知)と言えるのだが、ここでは人生について言及しているはずだ。我々が毎日生きていくことは、たくさんの unexpected virtue (予期せぬ徳)を生み出しているけれど、そのことに気付いていますか、気付かずにバードマンのようなことにこだわっていませんか、ということだ。リーガンはそのことに気付いた時には既に自殺する心境になってしまっていた。
バードマンというタイトルの映画だが、そんなことはどうでもいいことだというイニャリトゥのセンスである。カーヴァーの小説の持つ雰囲気を映像にしたかったのだろう。僕はカーヴァーなんて大したことのない作家だと思っているが、そこから本作を撮ったイニャリトゥの手腕はさすがである。パッと見ると、売れない俳優ががんばってブロードウェイで絶賛されて、最後はバードマンになっちゃったのかなぁ? 両義的なラストですぅ、とでも言える映画なのだが、それはただの"あらすじ"であって、映画の内容ではない。悩める男が死に至る様を滑稽に撮ったブラックなコメディである。

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