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創業家が激おこぷんぷん丸 / 「ハウス・オブ・グッチ」
もったいない、と感じる映画がたまにある。ラストシーンが余計だったり、過剰なメロドラマだったり、そこだけ直せば良かったのに、という作品だ。しかし、僕が余計だと考えるシーンを必要だと感じている人がいるからこそ十人十色である。
リドリー・スコット監督の映画に関しては、脚本を選べよ、といつも思う。映像は抜群なのに、脚本がまるでダメなものばかりだ。2000年の「グラディエーター」以降はリドリー先生となってしまい、娯楽大作ばかり任されているものの、残念ながら"名作"と呼べる映画は1991年の「テルマ&ルイーズ」が最後だろう。
2021年の映画「ハウス・オブ・グッチ」を観ていると、せっかくの映像がフニャフニャの台本によってピンぼけしているように感じられる。スープが完璧なのに、麺の伸びたラーメンみたいなものだ。
本作はグッチの創業家に起きた経営権を巡る内紛と、それに関連して1995年に発生したマウリツィオ・グッチ殺害事件を題材にしているノンフィクション・フィクションだ。マウリツィオの嫁である主人公、パトリツィアを演じたレディ・ガガの演技は非常に良く、アダム・ドライヴァーのマウリツィオ・グッチも申し分ない。これで監督がリドリー・スコットなのだから失敗する筈はないのだが、本作はグッチ家の内紛をリーガル・スリラーとして描きたいのか、あるいはマウリツィオ夫婦を巡るソープオペラを撮りたいのか、まるで焦点が定まらないまま158分が過ぎていく。つまり、脚本家が物事の全体像を捉えかねている。
グッチ家の内紛として観るならば、老獪な経営者アルド・グッチを演じたアル・パチーノは流石の演技だったし、俳優たちの演技合戦をロバート・アルトマン風に撮影して"並行物語"として仕上げれば良かった。パオロ・グッチを明らかに知的障害者として演じたジャレッド・レトも快演したし、ロドルフォ・グッチの役はジェレミー・アイアンズが演じている。ここまで役者を揃えておきながら、下手な脚本がマウリツィオ夫婦のメロドラマに時間を割いてしまうものだから、ジェレミー・アイアンズなんて何をしに登場したのかすら分からない有様である。編集でカットしても問題なかったレベルだ。
せっかくグッチの創業家を"アホばかりの一族"として演じるという冒険をしているにもかかわらず、パトリツィアというこれまた精神病の風味がある女を主人公にしてしまったものだから、158分という物語の焦点が完全にどこかへ行ってしまった。ただ、本作によって、アホは遺伝するということと、アホはアホと恋愛するということと、資本主義ではアホは経営に口を出すな、というメッセージだけはしっかり伝わってくる。僕なら、主人公をパトリツィアにせず、グッチ家全員集合のような脚本にしただろう。しかし、そうしたアルトマン/PTA/ウェス・アンダーソン風の映画は予算の大きな作品(7500万ドル)では敬遠されるようだ。
光の使い方といい、構図といい、リドリーの映像だけは褒めたい。これだけの俳優を揃えておきながら、実にもったいない映画である。2001年の「ブラックホーク・ダウン」以降、リドリーどうしちゃったの、と思っていたが、どうやら脚本を読んで全体を構成する力はリドリーに与えられなかったのだろう。キャリア初期の「エイリアン」「ブレードランナー」「テルマ&ルイーズ」などはいずれも予算は大きくないものの脚本が優れていた。
ちなみに、リドリー・スコット監督は女の"心の強さ"を撮ることが得意なので、本作においてもパトリツィアを上手く撮っていた。さすがカカァ天下の家庭に育っただけのことはある。ハリウッドで珍しいフェミニストの監督である。