テレビばっかり見ているから / 「チャンス」
人には性能の差がある。よって、人が誰かを理解するということは、誤解となる可能性の方がはるかに高い。善意は悪意として捉えられ、沈黙が金となる。
こうしたことを皮肉として描いた映画が1979年の「チャンス」(原題は Being There)である。主演は「ストレンジラブ博士」で1人3役を演じたイギリスのコメディアン、ピーター・セラーズだ。ちなみに、本作のハル・アシュビー監督は1973年に「さらば冬のかもめ」を監督している。
本作は、チャンスという名のアタマのうすい庭師が、なぜかアメリカの政財界の著名人たちにその発言のユニークさを気に入られ、ついにアメリカ大統領にまで会うことになるという滑稽な様子を撮ったコメディだ。自己紹介の時に名乗った"Chance, the gardener."(庭師のチャンスだよ)という返答が Chauncey Gardiner (チャンシー・ガーディナー)という姓名に聞き間違えられて以来、チャンスのバカな発言は全て深遠な意図が込められていると周囲が勝手に誤解し、黙っているだけなのに8つの外国語を話すことができると誤解され、テレビや政財界の大物たちに大人気となる。
ここで大切なことは、チャンスがバカ、つまり原始人のような知能として描かれていることではなく、チャンスが"テレビばかり見ている人"であることだ。つまり、チャンスは知恵遅れの庭師という設定であるものの、本作の主旨は、テレビばかり見ている人は極論すればチャンスのような者だ、ということだ。これはテレビが世界で当たり前になりつつあった時代に発表された、痛烈なテレビ批判の映画である。大袈裟な笑い声、毎日移り変わるニュース、滑稽な体操、こうしたものだけに興味を持つチャンスの姿は、当時の観客たちに対する皮肉だったのだ。そして、今日でもこの映画のテーマは通用するだろう。僕はテレビを一切見ないので、世の中の人たちがいかにテレビに毒されているか、よく知っている。
チャンスの発言が次々と誤解されていく様は、人間のコミュニケーションがいかに歪んだものであるかという事実をうまく表している。あいまいな言葉を使うほど、その解釈の幅が広くなる。それはちょうど、映画の感想と言いながら、「われわれはどこかでこうした感覚をもっているともいえるわけです」とか「ラストシーンの衝撃が心にずっと残っています」とか、何を言いたいのか分からないような決まり文句を並べるだけで"感想"と言い張る人が多いようなものだ。
チャンスを世話してくれたランド氏の墓が思い切りフリーメイソンのマークだったことは、アメリカ政治を全力で皮肉った結末として最高である。そして、水の上を歩くチャンスがキリストを模していることは言うまでもない。
これは、みんなちゃんと議論しろ、というメッセージの映画である。決まり文句を並べているだけでは何の意味もないという皮肉だ。1979年の映画だが、まだまだこのテーマは現役である。