難しいことを言ったもん負け / 「ジャンゴ 繋がれざる者」
これは僕の持論なのかもしれないが、映画や小説などのフィクションと現実は対立するものではなく、ちょうどコーヒーのなかにミルクを少し入れてもそれがコーヒーと呼ばれているように、現実のなかにも少しフィクションが入れられているという感覚を持っている。誰かの身の上話とか、歴史の逸話などはフィクションの割合が高いだろうし、前回のnoteでも書いたように映画のなかの出来事だが実際に起きたことを演じているだけというケースも多分にあるだろう。僕にとって、真実という言葉はフィクションの味がするのだ。
2012年のクエンティン・タランティーノ監督作「ジャンゴ 繋がれざる者」は、19世紀のテキサス州を舞台にした、奴隷と賞金稼ぎの話だ。本作はタランティーノが脚本を書いた純然たるフィクションだが、黒人を主人公にしている以上、奴隷制のことや黒人の置かれている現状から切り離して観ることはできない。これが映画というフィクションと実社会の境目だろう。
あらすじをざっと書くと、ドイツ人の賞金稼ぎシュルツ(クリストフ・ヴァルツ)が黒人奴隷ジャンゴ(ジェイミー・フォックス)を手にいれ、自らの相棒として育てる。ジャンゴは妻ブルームヒルダ(ケリー・ワシントン)を取り戻しにキャンディ(レオナルド・ディカプリオ)の農園へ行く。商談をしているうちにシュルツはキャンディを撃ち殺し、シュルツはその手下に撃たれ、ジャンゴは奮戦するものの妻ブルームヒルダを人質にされ、捕縛されて鉱山へ売り飛ばされる。道中で運び屋たちを暗殺したジャンゴはキャンディの農園へ舞い戻り、キャンディの忠実な秘書スティーヴン(サミュエル・L・ジャクソン)をはじめ片っ端から殺して屋敷を爆破し、妻と共に旅立っていくーー。
ジェイミー・フォックスの名演はさておき、こうした西部劇のパロディあるいはアンチ西部劇と呼ばれるジャンルとして撮られた本作は、いわゆる"エンターテイメント"である。「それでも夜は明ける」のような映画ではない。楽しんで観るべきものだし、タランティーノ作品らしくテンポよくストーリーはどんどん進む。映画の公開後にサタデー・ナイト・ライブに出演したジェイミー・フォックスは「白人をみんな殺せるんだぜ」と笑いをとっていたが、そういうノリで構わないのだ。
同じく黒人の出演者であり、タランティーノ作品の常連であるサミュエル・L・ジャクソンは、作中でニガーという単語が使用されすぎているという批判に対して「歴史のなかで仕方のないこと」としつつ、自分の演じたスティーヴンという白人に媚びるようなキャラクターについて「クラレンス・トーマスみたいなものだね」とコメントしていた。クラレンス・トーマスとは合衆国最高裁判所の陪席判事を長く務めている黒人で、判事のなかで最も保守的とされる異色の人物だ。このように、映画はエンターテイメントあるいはフィクションでありつつ常に現実に立脚しているのだから、その境界線の付近でいろんな批判や意見に晒されていて、そのことによって観客が物事を考えるキッカケになっている。楽しんで観て、あとでじっと考えたり、あるシーンを思い出したり、それが映画の良いところだ。
さて、ディカプリオの本作の演技はいつものレオに終始していたが、やはりジェイミー・フォックスとサミュエル・L・ジャクソンの帯びる雰囲気は出色であった。白人であるクリストフ・ヴァルツとレオが引き立て役のようにも感じられ、黒人が主人公の西部劇に相応しい映像に仕上がっている。血は飛び散りまくるし射殺しまくるし爆破はするし、いつものタランティーノの暴力フルコースだが、それもまたエンターテイメントであり、ある種の現実を見せているとも言える。人を撃てば辺りは血の海になるというリアリティを追求したフィクションだ。
このように、映画はテーマも演出も脚本も、全てが現実とフィクションの混ざり合うところで出来上がるものだ。観た後で一人ひとりが感じたり考えたりすることこそが、映画の目的と言える。
ところが、近頃の"日本語のインターネット"を眺めていると、みんな映画に"正解"や"答え"があると思っているのではないかと感じてしまう。映画は考えるヒントをくれるだけで、そこに答えなんてないのだ。だから映画に関するnoteなんて、じぶんの意見を好きなだけ書けばいいのに、自信がないのか、教養がなくて不安なのか、他人と異なる意見を書くのが怖いのか知らないが、どれも似たような記事ばかりである。
「ジャンゴ 繋がれざる者」は良く出来たエンターテイメントである。奴隷制という背景をあまり気にせず、ジェイミーかっこいい!でいい。小難しい解釈なんて不要の映画だからだ。それが西部劇であり、エンタメ映画である。タランティーノはそういう映画を撮らせたらピカイチの上手さだ。