001 おしゃべりなライオン / わからないことにつきあってみること / MIXTAPE
アメリカのアングラコミックの巨匠ロバート・クラム Robert Crumb の音楽カードイラスト集である『R. Crumb's Heroes of Blues, Jazz & County』にはタイトル通り、偉人たちが輪郭線の太いイラストでページごと描かれ紹介されている。人選は古い時代のJAZZとBLUESとCountry20年-30年代からのパイオニア達を主にしていて、その時代の音楽が好きな私にはたまらない。クラム自身もバンジョー弾きでバンドで演奏するミュージシャンでもあり、戦前の音楽の愛好家としても知られる。
エジソンがフォノグラフを発明したのは1877年、その後SP盤が開発されたり、その40年後には、JAZZの録音(1915年)、BLUESのレコード盤(1920年)が登場するけれども、この録音最初期の時代の音源は溌剌としたライブ感や高揚感を伝えてくれる。
レコードがない、という前提の時代。楽譜はあったけれども、音楽を感じるにはライブしかなった。当然ながらこれらの時代の録音はライブ感が強いものが多い。現代がそうであるようにライブよりも音源を前提にして音楽を味わう時代とはやっぱり違う。
このイラスト化されたミュージシャンはそのような録音時代の最初期にいたパイオニア達だ。
上のイラストのジェーㇺス・P・ジョンソン James・P・Johnsonはその派手なピアノ演奏とは対照的にとってもシャイな性格だったそうだ。そう語るのはジェームス・Pの親友であり、共に後のJazzピアノへの発展に貢献したピアニスト、ウィリー・ザ・ライオン・スミス Willie The Lion Smithだ。その自伝『Music On My Mind』には録音中心の時代より前の頃や、まさに録音の時代が到来した頃に活躍したミュージシャン・その周辺の人物や場所の等のおびただしい数の固有名が登場する。
ウィリー・ザ・ライオン・スミスは今はJAZZピアニストか愛好家でもない限りあまり語られることはない。インパクトのある山高帽に黒縁メガネ、そして何と言ってもトレードマークである太い葉巻を口に咥えたままで、超絶技巧のピアノを奏でる。
同時代で熱狂的に喝采を送られるスターであっても、100年はおろか30年も経てば、新しい世代からは化石の扱いになるか、まったく知られなくなるか、というのがほとんどだ。とりわけ音楽や舞台というのは、「今この瞬間のライブ感」のようなものがいつも大事で、それが同じ時代に生きた人たちのわかちあいの根源になったりもする。
「今まさにこの瞬間」のことをあとから文字おこししたり、映像でみたとしても演劇の迫真性や緊迫感は、結局ライブでしか伝えれないものがある。ライブがはねると、人は日常に戻っていく。
そして、いつの間にか、かつての英雄は、世代がかわる中で、化石のように標本化されていく。例えばこの世代に全盛を誇るダウンタウンは、歴史に名は確実に残り続ける。けれども同時代の人が感じていた感動や感激やダウンタウン自身がもっているライブ感や即興性を100年後に伝えることは難しいだろう。僕等とてエノケンが一世風靡してた、エンタツ・アチャコが凄かった、コント55号が大人気だった、といったところで実感はわかないし。
『Music On My Mind』では忘れられた人達や20世紀初頭のアメリカに生きる黒人ミュージシャン(ザ・ライオン)が見た日常の景色がランダムに取り留めなく語られる。ザ・ライオンのライブ感を1970年代末に生まれた僕が書いたところで伝えることなんて出来ない。それでもザ・ライオンのように固有名やランダムなイベントを並びたておしゃべりを続けることで、僕たちの記憶の装置に素敵なバグを埋め込むことができるのかもしれない。
それは忘れられていくだろう歴史の細部かもしれない。しかし、僕らはおしゃべりして、語り継ぎ、楽しむことが出来る。
おしゃべりなライオン
もう15年以上も前のこと。
京都は左京区にあるZANPANOというカフェがあって、そこの店長ニー・ヤング(通称にーやん)にウィリー・ザ・ライオン・スミスのCDを貸したことがあった。店内でかける音楽用にと。
「このおっさん、喋りすぎやろ」と、にーやんが不満げに語るのも無理もない。ザ・ライオンの音源は特に晩年に近づく音源ほど、曲の前に必ずしゃべるのだ。曲の説明や当時あったことや作曲者の思い出が語られ、そこから演奏がスタートする。
それは『the Memoirs Of Willie "The Lion" Smith』というタイトルのアルバムで、特におしゃべりパートが多く、しかも曲と曲とをトラックとして区切らずに、そのまま録音を続けてるドキュメンタリーのようなアルバム。曲と曲との間に録音の切れ目がないということは、CDプレイヤーはとても長ーい1トラックとして認識し、次の曲へスキップしたくてもできず、長い語りがあってもそのまま聞き続けるしかない。カフェには音楽が必要だろうし、誰かが英語で話しているだけでは、店内も変な感じにもなったんだろうな。
ザ・ライオンの自伝『Music On My Mind』は文章という体ではなく、ウィリー・ザ・ライオン・スミスの尽きることない「おしゃべり」の記録。
彼の演奏とおなじく、時に正確に、時に誇張して、即興性を感じる語り口で、固有名詞や当時の言い回しなどをどんどん遠慮もなく使い、ランダムに語りつづける。やっぱり、ここでも、おしゃべりなライオン。
録音の残っていない、Abba Labbaという伝説のピアニストのことや
ブギウギ・スタイルがそう呼ばれる前にブギウギを弾いていたKitchen Tomなど。
Jazzやアーリーアメリカンが好きな僕でも、固有名の多さに圧倒されてついていけないところがあったりもする。
でも、ちょっとわからないことに付き合うのも読書の醍醐味だったり、ちょっと馴染みのない音楽をじっくり聴くのも嫌いじゃない。
そう諸君、曲をスキップして、気に入ったところだけを聴くのもいいけれど、じっとフルアルバムを最初から最後まで聴いたりすることや、わからないこと、なじみのないことにしばらく付き合ってみることも悪くはないよ。外国語の本を読んだり、自分にとってなじみのない音楽に触れる時はその感覚は大事だったりする。すぐに核心に触れようとする性急さよりも、とりあえずじっくりつきあってみてわかることがある。
そういえば、
先日みたNetflixの『Mixtape』の中で、こんなセリフがあった。
早死にした両親がミックス・テープ(お気に入りの曲を詰めたカセットテープ)を残してくれたのはいいけれど、肝腎のテープは壊れてしまい、曲をきくことができない。曲リストを片手に主人公の少女(ジェンマ・ブルック・アレン)はレコード屋に駆け込み「どの曲でもいいけどベストなものを聞かせて」とレコ屋の兄ちゃん(ニック・スーン)にせがむ。
しかし、その少女のセリフ「どの曲でもいい」がレコ屋の兄ちゃんに火をつけてしまい、熱っぽく説教される。
ミックス・テープには決まりがあるんだ、と。