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down the river 第三章 第二部〜飛翔④〜
浦野が住んでいるアパートの裏にある取り壊しが決定している団地群にユウと真理は居た。
浦野の情事を覗き見したあの頃から月日は流れ、既に取り壊しは始まっている。
当時取り壊しが始まった団地群等の立入禁止措置などは、現代では考えられないほど杜撰であり、野放しといった状況であった。
しかし防犯上の都合からか取り壊し待ちとなっている建屋の防犯灯や階段の灯りは灯っており、解体された日常と、人々が暮らした形跡が夜の闇にぼんやりと映し出され何とも言えない不気味さを醸し出している。
「新田さん、ゆ、ゆ、許してくれるの?本当に?」
ぼんやりと風前の灯の様に最後の力を振り絞って燃えている階段の照明の元で、上下黒色の下着姿にチョーカーネックレスだけという出で立ちで真理はユウの前に立て膝をついていた。
事を終えた様子で、ユウはズボンを上げながら優しい口調で真理をなだめた。
「許すも何も…真理を責める筋合いはないよ。真理は無理矢理キスされた、胸を揉まれた、悪いのはどう考えても天澤さんだろ?」
「でも、それで…私は濡れたんだよ?これは私の裏切りじゃないの?」
「心と身体は同じだっていう人がいるけどさ、俺はそうは思わないな。」
「でも…」
真理がそこまで言うとユウは、真理の両頬に手を当ててギュッと力を込めた。
真理の美しい顔がムギュっと潰れて、唇が飛び出る。
「許すの。真理。でもじゃない。分かった?それとも心も天澤さんに奪われたの?」
真理は潰れた顔のまま一心不乱に首を横に振った。
「なら真理は悪くない。分かった?」
真理は潰れた顔のまま一心不乱に今度は首を縦に振った。
その様子を見たユウは満足気に優しく微笑むと、真理の飛び出た唇にフワリと軽い口吻をした。
ユウは唾液のアーチを描きながら唇を離すと同時に、真理の両頬を潰していた両手を離した。
「良かったよ!やった!新田さんが許してくれた!ありがとう!嬉しいよ!」
真理は立て膝のままユウの腰に抱きついた。
純粋に身体全体で嬉しさを表現して、満面の笑顔でユウにその気持ちをアピールする真理はその名の通り犬の様だ。
真理に尻尾が付いているのならヘリコプターのローターの様なスピードで振り回している事だろう。
「真理、そろそろ服を着なよ。虫にやられちまうよ
。」
「うん!」
真理は美しい髪を揺らして首を思い切り縦に振った。
「真理…。」
ユウは服を着終えた真理の髪を撫でると、そのまま頬に手をやった。
「どしたの?新田さん?」
「大丈夫なの?天澤さんとは…友達なんだろ?」
「ちゃんと話をするつもり。」
「話できるのか?」
「もちろん。友達だからこそちゃんと話をしなきゃ。それにね…その…新田さんがいるとさ、うんと…その…私には新田さんがいるってだけでなんか…その…」
真理は恥ずかしそうに顔をユウから背けた。
「何?」
「新田さんがいるってだけで何とかなる様な気がするの。私には新田さんがいる、それだけでさ、何とかなりそうな気がするのよ、本当に。」
ユウは真理の純粋で真っ直ぐな気持ちに返す言葉も無かった。
『俺は…そんな人間じゃない…』
自分を純粋に信じてくれている真理を前に過去の記憶がまるで閃光の様に頭に映し出される。
『俺は何か幸せと思える事が起きたら毎回毎回こんな思いをしなきゃならないのか…。自分はこんなんじゃだめだって…こんな思いをする権利は無いって…。それにしても…なんて醜いんだ…我ながら吐き気を催すツラだ…』
…ラタ…サン…サン……
「新田さん!!」
「うわっ!!ごめん!真理!」
「新田さん、ごめん、何か思い出させちゃった?」
髪を揺らして真理が心配そうにユウの顔を覗き込んでいる。
「あ、い…うん…まぁ…な…。」
「新田さん…大丈夫。私が守る…私が守るからね。幸せになっていいんだよ?自分から幸せと安らぎを否定してはだめ。楽しく、幸せになる為に生きているのに、それを自分が否定したら幸せになんかなれるわけがないわ?戦う時は戦うの。安らぐ時は安らいでいいの。そしてそのタイミングを決めるのも自分よ?新田さんは中学校の時に十分に戦ったわ。幸せになる権利なんて誰にでもあるし、新田さんはその権利なんてたくさん持ってるはずよ?」
「真理…」
「苦しくなったら私の胸の中で苦しいって叫べばいいわ。誰かを傷付けたくなったら私をズタズタにすればいい、心も身体も痛めつけたかったら私を使ってくれればいい。新田さんの為なら喜んでこの身を捧げる。本当よ。」
「フフ…」
ユウは両手の平を口に当てると、ボロボロと涙を流した。
笑って誤魔化そうとしたが、誤魔化せる涙の量ではない。
『わからないな…たった1年しか歳上じゃないのになんでこんな俺を包み込んでくれるんだ…。真理…お前を離したくない。真理…天澤百合子からは俺が守る…。』
「ま、真理ぃ…お、俺が…天澤百合子…うくっ…からは俺が…ま、ば、ば…守るから!守るから!」
「うん、新田さん、私を守って。ね?」
真理はそっとユウに近付きフワリと柔らかく抱き締めた。
・・・
夏休みはあっという間に過ぎ去った。
真理はしっかりとけじめをつけて行動できる人間だ。
音楽イベントへ出向き、ユウとの時間もしっかりと確保しつつ勉学にも精を出す。
地頭力が高い人間だけあって、自分が作ったスケジュールを確実にこなしていける。
「ぃよし!終わり終わりっと。完璧。我ながら完璧だわ。」
明後日に始業式を控えた夕方、勉強を終えた真理は自宅の自室で大きな声で独り言を呟いた。
夏の夕日が眩しく、18時を過ぎた時点でもまだ太陽はしつこくその光を赤く放っている。
部屋の遮光カーテンの隙間から差し込むその赤い光を横目で軽く流し見しながら真理は、ふぅと満足気なため息をついた。
真理の部屋は冷房が軽めにかかっており若干の暑さを感じるが、カチューシャで前髪を上げ、キャミソールにパンツ1枚、という実にエコロジーな格好のおかげか真理の身体に汗は浮いていない。
どうやら勉強も随分と手応えがあった様で鼻息を荒くしながら机の上を片付けていた。
「真理!電話!電話よ!」
母親らしき声が1階から聞こえた。
真理は一つ一つ仕事を終わらせないと気が済まない気質らしく、机の上の片付けを止める事なく返事を返した。
「えぇ!?」
「電話だって!」
「誰よ!?」
片付けを先に終わらせたい真理は少し不機嫌に大声で母親に返事をするが次の瞬間、心臓から全身に送られる血液全てが氷水になったかの様な感覚が真理を襲った。
「百合子ちゃん!」
「あ…。あ…ん…うん…。」
「早くしなさいよ!」
「あ、う、うん!わ、分かった!」
真理は机の上の片付けを止めた。
そしてカチューシャを外し、美しく軽やかな髪の毛を振った。
何かを振り切るかの様に机の上にある手鏡を手に取り見つめると、ふぅと長い息を吐いた。
「面倒な事とか嫌な事は先に済ませないと。楽しめなくなっちゃう。うん。もやもやしたまま遊びたくないし、そのままにして新田さんに会うのもなんか嫌だ…。百合子…」
真理は1階へ降りると廊下に置いてある電話の受話器を取った。
親機子機と別れている電話が家庭でも主流となり始めたこの時代、未だ犬塚家では古めかしい小さなプッシュホンだ。
家屋もあまり大きくないもので、庭も狭い。
犬塚家はそれほど裕福ではないようだ。
「…りこ…ゆ、百合子…?」
「真理、ごめん。勉強してた?邪魔してごめんなさい。」
「あ、い、その、う、うん。だ、大丈夫。」
「私…あれから色々考えたの。少し自分勝手だったかなって…。」
真理は百合子のセリフを聞いて苛立ちを隠せなくなった。
『その自分勝手な行動で高校最後の夏休みをずっともやもやして過ごさなくてはいけなくなった私の身にもなってよ!』
「…。」
「ごめんなさい、真理…怒ってる…よね?」
「卑怯だよ、百合子。」
「どうして?何が卑怯なの?」
「電話で言われても困る。それに私の気が済まないわ。そして学校が始まる少し前に連絡をしてくるのも卑怯さを感じる。その間私はずっともやもやしてたのよ?百合子、ちゃんと会って話をしないと私は電話だけでハイ終わりってのは納得しないよ?それに、質問の答えだけどはっきり言って怒ってるわ。カンカンよ。」
「そう…本当にごめんなさい。ねぇ…これから会えるかしら…。」
「嫌。」
「な…どうして?きちんと話がしたいだけよ?」
「何をされるかわからない。」
「そ…そんな…」
「学校で話をしよう。ね?早く百合子と話をしてこのもやもやを消し去りたいのは山々だけど…やっぱり私、正直言うと怖いよ。」
「そう…。仕方がないわね…。怖がらせてしまって本当にごめんなさい。」
「とりあえず、学校でね。」
電話のある廊下は昼間の熱をたっぷり蓄え、その暑さは夕方とはいえ尋常ではない。
百合子の自分勝手というセリフと、その暑さから叫びだしそうな自分を真理は必死に抑えていたのだ。
「早く話を終わらせたい、終わらせないと叫びだしてしまう」
その考えだけで今の真理の頭はいっぱいいっぱいだったのである。
「真理、一つ聞いていいかしら。」
「何?」
「恐怖と怒り…どちらが上かしら…。」
「は?どういうこと?」
「私に対しての真理の感情…。」
「それを聞く意味ある!?」
真理は母親が家の中にいるのを忘れ、電話口で声を荒らげた。
「…。」
「百合子!どうなのよ!意味あんの!?」
「…タ…エテ…。」
「百合子!」
「答えて…。」
「ゆ…っ!!」
真理は「百合子」と怒鳴ろうとしたその瞬間、百合子のトーンが変わり受話器から冷気が出てくる様な口調で被せてきた。
「答えて。真理。」
「う…。」
「真理?答えて。」
「こ、こ、怖い…百合子…怖い…怖いよ…。」
「そう…じゃあ学校で…いきなり電話して本当にごめんなさい。じゃあね。」
真理は無言で受話器を置いた。
蒸し暑い廊下にいるというのに真理の身体から熱は奪い去られていた。
「ど、どういう…意味?百合子…」
真理は何かに気が付き自分の股間に視線を移すと、慌てて自室へと戻った。
「う、嘘でしょ…私…な、なんで…」
真理の右手には粘液が糸を引いて、卑猥な香りを放っていた。
「わ、私は…新田さんが好き…。この身体は新田さんの為にある…」
真理は右手に付着した粘液をティッシュで拭き取ると、そのままそのティッシュで股間を拭いた。
そしてティッシュを丸めてゴミ箱に放り投げた。
「新田さんの…もの…百合子のものじゃない!」
そう言いながら真理は両頬を叩いた。
「百合子のものじゃない!百合子のものじゃない!うううぅ!あああ!」
何度も叩いていく内に真理の頬は赤みを増していく。
母親が異変に気が付き止めに入るまで真理の自傷行為とも呼べる両頬への平手打ちは続いた。