down the river 第三章 第二部〜飛翔①〜
腹の内側、内臓の壁に直接響いてくる重低音が鳴り響くライブハウス「FRIDAY」の楽屋にユウはいた。
リハーサルを終えてオープンまで2時間近くある。
会場では鳴り響く音楽の中でドリンクコーナーの準備が進められていた。
出演者達は各々出かけたり、楽屋で休憩をしたりして時間を潰している。
世間の学校は夏休みであり、その暑さは毎年の事ながら尋常ではない。「FRIDAY」の室外機も激しい唸りを上げている。
高校2年生のユウは自分の思い通りボーカリストの瀧本を追いやり、歳上のメンバーを従えてBlue bowを率いていた。
迫島と出演した2年前の「FRIDAY」デビュー時はガチガチに固まっていたユウが、現在は楽屋の入り口近くにあるパイプ椅子に足を組んで座り、長尺の煙草を燻らせて大物の風格を携えている。
そしてユウが座っている横には真理が両手を前で合わせて従順な態度で立っていた。
変わらないショートヘアを軽やかに揺らし、ユウを見つめている。
軽めの化粧をしており、首には黒曜石の様に黒い石が吊られている黒いチョーカーネックレスをして、何やら過激な英語がプリントされた黒いタンクトップを着ていて、エナメル素材の黒いホットパンツにヒールのあるショートブーツという生徒会書記から副会長へと昇任した人物とは思えないファッションだ。
真理のファッションこそ過激ではあるが、その表情、視線、佇まいはまるでユウの執事の様である。
「真理、今何時?ここは何で時計置いてねえんだよ。ある程度時間は把握しとけよって言う割には備えが悪い。なぁ?真理。」
ユウは立っている真理を見上げ同意を求めた。
「まだ4時だよ。後2時間でやっとオープン。長いね。新田さん煙草、吸い過ぎちゃだめだよ?本来ならボーカリストなんだし止めないといけないんだよ?」
真理はユウのクレームを軽やかにスルーして見事な受け答えをした。
「あぁ、うん、確かに。それはうん。」
「そもそも未成年。新田さん、私生徒会副会長様よ?いつでもチクりが出来るんだからね。」
「あぁっと、勘弁してよ真理。余計な事言うんじゃなかった…タハハ…」
「ね、新田さん、少し外に出ない?」
「えぇ?暑いよ?」
「いいから、少しだけ。ね?冷房の中ずっといるのも良くないし、私も少し寒い。」
「お前、薄着なんだよ…。まぁいいか、じゃあ少し行こうかな。」
ユウは煙草を消すと椅子から立ち上がり、少し離れた位置にあるパイプ椅子に座って、自分のギターいじりをしているBlue bowのギタリストの1人、元田に声をかけた。
「モッさん、少し外歩いてきます。すぐ戻りますけど。」
「ん?あぁ花波も、矢村も飯食いに行ってるし、お前らも飯食ってくれば?まだ先は長いよ?」
花波はもう1人のギタリスト、矢村はドラマーだ。
元田はモッさんと呼ばれ、その優しそうな雰囲気とキャラクターで人気者だ。
現在のBlue bowは
新田優 高校2年生
・ベース ボーカル 作詞作曲
元田健三(モトダケンゾウ)大学1年生
・リードギター 作詞作曲
花波結城(ハナミユウキ)会社員
・サイドギター ボーカル
矢村克洋(ヤムラカツヒロ)会社員
・ドラム
というラインナップだ。
元田、花波、矢村は皆同級生だ。
「いや、少し歩いてくるだけなんで。腹も減ってませんし。」
「ん。ならいいけど。ユウ、彼女から言われてたけど煙草控えるか、止めた方がいいぜ?」
「タハハ…モッさん聞こえてたんですか…。ハイハイヤメマスヤメマス。」
「じゃ、行ってらっしゃい。」
「はい。」
元田は座ったままヒラヒラと右手を振った。
元田はお世辞にも綺麗とは言えない染まり方をした茶髪で、髪の長さは普通、髪型も普通の真ん中分けで顔つきものっぺり顔でこれと言って特徴が無い。
ボロボロの洋物のバンドTシャツと濃色のGパンといういかにもしがないバンドマンといった外見だ。
「アレでかなりの腕前だからなぁモッさんは。ね。見た目によらないよね。」
「こら、新田さん、先輩をアレとか言わないの。」
「タハハ、ごめん、真理。」
2人は談笑しながらライブハウスの外に出ると、湿りに湿った高温の空気が肺に直撃してきた。
「くはぁ暑い。」
「新田さん、少し歩こ?」
「あぁ。」
2人は駅に向かって歩き始めた。
今日は土曜日であり、退勤ラッシュの人波もまばらだ。
「真理。お前と付き合い始めて1年経ったけど…」
「ね!まさか新田さんと付き合うとは私も思ってなかったよ!先月で1年経ったんだよね!」
ユウが話をしている最中に話を挟んでくるところは以前の真理とは全く変わっていない。
ユウは過去、真理のそこに苛ついていたのだが、今はその欠点すら愛しく感じている。
「改めて聞きたいんだけど本当に良かったの?バイセクシュアルの俺だけど。」
「新田さん、前にも言ったけど私はそれがいいの。」
「え?言ってたっけ?」
「言ったよ、言った。男も女も、ぜ〜んぶ好きになれる人が私を選んでくれたんだよ?凄い事だよ!ってさ!」
視線は前に向けたまま話す真理のキラキラと光る笑顔が車のヘッドライトに照らされて更にその輝きを増していく。
「真理、嬉しいけど声がでかいぞ。」
「あ、ごめんね。でも私は本当にそう思ってるの。新田さんにこうして付いていける私は男女全ての中から選ばれたんだって。」
「そっか、ありがと。」
「新田さんは凄いと思う。本当に凄いわ?本当よ?」
真理は突然艷やかに踊る髪を振り、ユウの方を向いた。
「何だよ急に。ん?」
「新田さんは自分が恥だとかさ、恥ずかしいとか思ってる事をそのまま伝えてる。それって絶対共感を得て、絶対人から認められる行動だけどすんごい勇気がいる事だし自分を売る事になっちゃうから中々行動に移せないの。それを新田さんは…簡単にやっちゃう…。」
真理は歩くのを止めた。
少し先を歩くユウは真理の足音が止まったのに気付くと歩みを止めた。
そしてユウは振り向いて心配そうに真理を見つめた。
「新田さんは本当に私に優しくしてくれる。」
ユウは真理の言葉を聞くと恥ずかしそうにフンと笑い真理に近付き、半開きの真理の唇を吸った。
ユウはタンクトップから露出している艶々の真理の両肩を撫でながら徐々にその吸引力を増加させていった。
「ンッ…。」
真理の目は吐息と共にとろけ、膝が震え始めた。
それに構わずユウが真理の唇を吸い続けていると、あろう事か真理は自らの股間に手を伸ばし、その中指と薬指を細かく動かし始めた。
それに気が付いたユウは、ハッとして唇を離して真理の顔を見つめた。
「コラ、真理、止めろよ。お前はS高生徒会副会長様じゃないのか?いくら俺の地元が田舎だとはいえ人がいないわけじゃないんだぞ?」
ユウは真理を叱りつけると、真理の両頬にそっと手を当てた。
「ヘヘ…新田さんに叱られちゃった…嬉しいな。悪い娘でしょ?もっと叱って?へへへ…。」
ユウは呆れた様に笑うと真理の両頬から手を離し、方向転換すると、真理を置いて再び歩き始めてしまった。
「ち、ちょ、ちょっと、新田さん!」
それに気が付いた真理は慌ててユウを追って行った。
「ここは俺の地元だぞ?真理。S高生だっているんだ。」
「ハァハァ…暑いね。ブーツなんだから走らせないでよもぅ…。」
「聞いてんの?真理。」
「え?何が?」
「聞こえてねぇのかよ…。もういいや、飲み物買ったら戻ろうぜ。」
「何よ、何か言ったの?」
「何も。」
「嘘だぁ。」
「うるさい、早く行くぞ。」
「はーい。」
まるで長年付き合っているかの様なやり取りを交わしながら2人はネオン街へとその影を沈めていった。
・・・
「百合子!あぁ百合子来た!ね、新田さん、百合子が来たよ。」
ライブハウスの出入口で立っていた真理は、百合子の姿を確認すると、ぴょんぴょんと跳ねながら手を大きく振った。
真理はタンクトップ姿で両手を大きく振っている為、湿った脇の下がしっかり露出してしまっている。
真理程の美人が過激で露出度の高い格好で、汗に濡れた脇の下を露出しているのだ。
周囲の視線が集まるのは仕方がない事だ。
「新田さん、百合子に会うの久々でしょ?」
ユウは真理の隣で首を縦に振った。
「真理、凄い格好ね。大丈夫?そんな格好して。」
百合子は真理の佇まいを足下から頭の天辺まで見て、心配そうな顔で真理に言った。
「平気平気ぃ。」
「そう。ならいいけど。お?新田くん久しぶりね。」
「天澤さん、どうもっス。今日は来てもらって、その、ありがとうございます。」
「いえいえ。私も時間あったし、今日は夏期講習も午前中だったからね。たまには息抜きも必要よ。でも…新田くん、何か雰囲気変わったね。何かこう、…ううん、上手く言えないけど…」
「かっこ良くなった?かっこ良くなったんでしょ?それなら私のおかげよ?百合子。」
真理はそう言いながらユウの腕に絡み付き、ユウの汗ばんだ上腕に頬を当てた。
真理は話の最中に口を挟むのに相手は選ばない様だ。
「自信というか、何か、力強さというか…そんなのが溢れてるというか…。」
百合子は真理の話には反応せずに話を進めていく。
「自信。うん。それだわ?自信に溢れてる。ところで今日は瀧本さんが脱退してから2回目のライブなのよね。私は新田くんになってから初めて見るの。楽しみだわ?」
「ハハハ…瀧本さんの後任は荷が重いですよ。」
思ってもない事を言うユウに百合子は気が付いたのか、顔を僅かにしかめた。
「瀧本さんのBlue bowをずっと見てきたからね。どんな風に化けているのか…うん、新田くん、今日は楽しみにしてるよ。まだ時間はあるのかしら?」
「うん、あるよ!新田さんの出番はまだまだ先。なんとなんとトリ前よ!?百合子、もう中入る?オープン前だけど関係者ってことでパスを余計に1枚もらってるの。百合子の分あるよ?」
真理の「新田さんの出番」という言葉に百合子は再び顔をしかめた。
ユウの発言に対しては僅かにしかめる程度であったが、今回は明確な不快感を表現した。
百合子は若干顔を下に向け、その状態から真理を密かに睨んだ。
『ぐっ…マジか…天澤さん…。こいつ…まさか…』
真理を睨んでいる百合子の表情を目撃してしまったユウは背中に冷たいものを感じながら話題を変える事を考えたが、ユウが保持している話題の引き出しの数などたかが知れている。
ユウはあれこれと考えながら百合子の顔を見ているとみるみる表情が変わってくる。
いつも微笑んでいる様な穏やかさ溢れる表情から、必殺の一撃を放たんとする格闘家の様に殺気溢れる表情へと変わった百合子の顔を見たユウは思わず叫んだ。
「あぁ!!う!その!あれ!」
ユウの声が辺りに響き渡り、その声に百合子は我に返った。
「お酒!天澤さん!ここね、内緒でお酒も飲めちゃうんですよ!?タハハ…内緒ですヨ?内緒。」
ユウは額に大粒の汗を纏いながら誤魔化しに全勢力を注いだ。
「やだぁ、新田さん!百合子がそんな事するわけないでしょ!?ね?百合子!」
『バカ野郎!真理!今は余計な事をを言うな!やべぇ…この女…やべぇぞ…。お前は口挟んでくんな!』
ユウは真理を睨んだ後に恐る恐る百合子の顔にゆっくりと視線を向けた。
「新田くん、真理の言う通りよ。アハハ!いやぁね!大事な時期だよ?お酒なんて飲まないよ。」
「ハ…ハ…ハ…そ、そ、そうで…そうですよねぇ、アハ、タハハ…。」
「ね?新田さん、言った通りでしょ?百合子はそんな事しないの。」
『はぁ…もう相変わらずのんきな奴だな…真理は…。』
「ま、まだ時間ありますから、真理と少し時間潰しててもいいですよ?僕は準備もあるので…。」
「そう?じゃあ真理を借りていこうかな…。」
百合子は微笑みながら真理を見ると、真理は満面の笑顔で首を縦にブンブンと振った。
真理は一しきり首を振り終えると「いいの?」と言わんばかりにユウにその笑顔を向けた。
「真理も中は寒いって言ってたしね。行ってきなよ。百合子さん、真理を頼みますね。」
「真理を頼みますねーだって。アハハ!なんかワンコみたいね。うちのコよろしくねーみたいな。エヘヘ、新田さんからそんな言い方されるの嬉しいな。百合子、少し歩こうよ!」
「タハハ…少し歩こうよってか…。歩き足りないのかよ…本当に犬みたい。じゃあ二人とも気を付けて。」
「うん、新田くん、真理は任せて。真理、そんな格好しないの。まったく危なかっしい。なんなのそのはしたない格好は…そもそもあなたは…」
「気にしない気にしない、百合子は気にし過ぎだよ。さぁ行こ?百合子。じゃあ新田さん!後でね!」
「あぁ。じゃあね。」
ユウは2人の姿が視界から消えると煙草を咥えて、火を点けた。
「天澤百合子…やべぇな…俺が瀧本さんをBlue bowから追い出したと思ってんのかな。まぁそうなんだけどさ。ふぅ…」
ユウはゆっくりと煙草を咥えたまま、迫島と一悶着あったFRIDAYの裏に行った。
「ふぅ…やけに煙草が美味いな…幸せ?なんだよな…。俺は…今…。」
ユウは咥え煙草のまま煙を吸い込むと、真夏の夜だというのに自分の両肩を抱くという行動に出た。
そして自らの両肩に置いた両手が不自然に震えている。
「お、俺は…あれから全てを手に入れた…捨てたものより、明らかに手に入れたものの方が多い…。だから…幸せなんだよな…。タカちゃん…なんでかなぁ…俺…今…この時間が怖い…幸せが…怖いって…どういうことだよ…こんなに怖いなら…幸せを感じる事が怖いなら…前みたいに友原、弓下、哲哉、タカちゃんにむちゃくちゃにされてる方が良かった気がするよ…。」
ユウは自分の両肩に爪を立て、その物理的な痛みで心の痛みを抑え込んでいる。
「くそぅ…幸せが…こんなに怖いものだなんて…。怖い…怖いよ…タカちゃん…」
ユウは血走った目を見開くと両肩から手を離した。
そして首を勢いよく左右に振り、その後ゆっくりと天を見据えた。
まもなくオープンの時間だ。
天を見据えたままユウは左胸を右手でドンと思い切り叩くと、滑らかな動きで天から正面へと視線を移した。
そしてユウはFRIDAYの正面入り口へ向かって歩き出した。
「今見るべきものは捨てたものより手に入れたものだ。そうだろ?」
ユウは咥えていた煙草をプッと吐き捨てると歩く速度を上げた。
「改めて…けじめのつもりで言わせてよ…さよなら…タカちゃん…。」