「自分を愛する」ことに向き合った2024年
秋分に綴ったnoteから三ヶ月。更新ペースが落ちてきてしまった…
前回のnoteで「宇宙意識で生きる」と宣言したが、それ以降もずっと自分の意識のアップデートは続いていた。特に11月あたりは、占星術的に見ても地球をとりまくエネルギーが変わるタイミングで、その影響もしっかり受けていた気がする。
それもあって、noteの筆はなかなか進まなかった。頭の整理という意味でも言語化、アウトプットは必要なのだが、直近の意識の変化のスピードは、アウトプットできるスピードを超えていたのかもしれない。
気づけば、12月。今年最後の満月の日。
せっかくなら何かしらアウトプットしておきたい気持ちになった。
とはいえ、いまも意識の変化の只中にあることは変わりないし、この変化の本質について、文章にまとめることはまだ難しい。
ただ、ひとつ確かに言えるのは、2024年を通して私はひたすら「自分を愛すること」を意識していたということだった。
そのことを少し書いておこうかと思う。
***
「自己愛」に向き合った2024年
「自己愛」と徹底的に向き合わされた一年。
「向き合わされた」と受動態で言いたくなるほど、導かれると感じる不思議な出来事も多かった。
ゲームでたとえるなら、「自己愛」の数値が一定値クリアしないと次のステージに進めないという感じ。しかも、このゲームにはタイムリミットのようなものがある、ともなぜか感じられていた。
ほらほら!今だよ!
私の魂がそう伝えてきていた気がする。
結論を先に言ってしまうと、この自己愛探求に一年間、最優先で取り組んだ成果もあってか…
めちゃめちゃ軽くなった。
まるで、生まれ変わったように。
体感として少し過去の自分が「前世」に思えるほどの変化だった。変化の感覚については前回のnote 「宇宙意識で生きる」という覚悟 でも書いているのだが、人生ゲームのルールが丸ごと変わるような、ドラスティックな変化だった。
心の奥底にラスボスがいる
このnoteでもたびたび書いてきたが、インナーチャイルドの癒しや、過去世の癒しというのは、数年前から取り組んできていた。それによって自分の魂の輪郭がはっきりしたし、進むべき道を進めている納得感はあった。
表面的には、とても穏やかな生活。
それでも今年のはじめ頃は「何か自分の心の奥底にまだラスボスみたいなのがいる」という感じが否めなかった。
(ゲーマーなので再びゲームのたとえを出してしまうが)ゲームでも中盤以降になってはじめて、ラスボスの存在が明かされたりする。ゲームが進んだからこそ、ラスボスの存在がちらつくようになってきたのかもしれない。
些細な出来事をきっかけに抑えられない苛立ちや怒りが湧いてきたり、あるいは理由もなく鬱々とした感情が襲ってきたり。「産後のホルモンバランス」とかもよく言うし、慣れない子育てでそれなりにストレスがあるのだろうとやり過ごしていたのだが、日ごとに違和感が増していった。
はっきりとおかしいぞと気づいたのが、春のある夜のこと。
自分の不注意で子どもがソファから落ちてしまい、ショックで大泣きしてしまったことがある。さいわい彼に怪我はなく、ほどなくスヤスヤと眠りについたのだが、今度は私のほうが大声で嗚咽しながら泣き喚いてしまった。小さい子供がしゃくりあげて泣く、そういう感じ。嗚咽しながら、自分でもちょっと引いている。わけがわからない。子どもは大丈夫だったわけだし、そんなに取り乱すほどの理由がないのだ。
この時、何か根本的な傷があると確信した。
もしかするとセルフワークでは限界があるのかも?
そこで、あるチャネラーさんに鑑定をしてもらったのだった。
過去世の少女が持っていた傷
そのチャネラーさんが教えてくれたのは、こういう話。
なるほど…。
もちろん本当かどうかは証明できないことだけど、妙に納得できた。自分では気づくことができなかったのは、つらすぎる経験だったからこそ、引き出しの奥の奥の方にしまっておくしかなかったということなのだろうか。
ラスボス的に私の目の前に現れたのは、何か特別に強大な悪…ではなくて、ただ一人の悲しい少女の過去世だった。
人の優しさを素直に受け入れられなかったり、褒められるのが苦手だったり…なんとなく自己肯定感の低さは自覚していたけれど、今世の幼少期を探ってもなかなか決定的な理由を見つけられなかった。
本当は親との関係のせいでも、他の環境のせいでもなくて…なんというか、そもそもの人生のスタート時点、生まれたその時から「初期設定として自己愛の値が低めに設定されている」気がしていた。
やっぱり、そうか。
過去世から受け継いで、今回のゲームを遊ぶための課題として持ってきていただけ。自己愛低めだったからこそできた経験もたくさんあった。きっと意味ある初期設定だった。
そこにようやく、腹落ちすることができた。そして、気づいた時が、癒し時である。
自己愛低め設定な私のための最善策
チャネラーさんは、この過去世の傷の解消方法も教えてくれた。
意外とシンプル!
「半年かかる」と言われて飽き性の私は少し怯んだが、深い傷だとしたらそのくらいは当然なのかもしれない。
でも「これならできそうだ」と思えた。
実は以前、別の機会にもある年配の男性のカウンセラーさんから「あなたは自己肯定感が低いから、声に出して自分を褒めることを習慣にしなさい」と指摘されたことがある。脳科学や量子力学的な観点からもちゃんと理由を説明してくれていた。
しかし、この真っ当な指摘が、けっこう私を悩ませていたのだ。
わかる、言いたいことは、すごくわかる。
ただ、そもそも初期設定として自己愛に難がある私のような人間にとっては「自分を褒めることを習慣化する」のは、かなり難易度が高いことだ。試しに「あやちゃん、よくやってるね」とか声をかけてみても、脳内では即座に「は?どこが?」と否定のツッコミが入る。何度やっても、その繰り返し。自分の脳内ツッコミを聞くのがつらくなって、続けられなかった。そして、そんな続けられない自分を否定するという悪循環が起きる。
でも、いまの私にとって、息子は間違いなく「無条件に愛を注げる存在」である。
彼に対して毎日「大好きだよ」と笑いかける時に、同じように「あやちゃん(過去世の少女をイメージして)、大好きだよ、ありがとうね」と声をかける。それならば、全く違和感なく実践できるだろうと思えたのだ。
実際、効果はテキメンだった。
声をかけた途端に、自分の胸の奥のほうから「じわわわわ…」と何か温かい波動が広がっていくのがわかる。涙が込み上げてくる。心の波が凪いでいくのが感じられた。
シンプルだけど、意外と気づくことができなかった私にとっての最善策かもしれない。息子の存在が教えてくれたことでもある。
これを半年間、コツコツ実践した。
で、今がある。
他にも今後の分岐点になるような出来事や気づきがいろいろとありすぎた一年だったけど、きっとこの地道かつシンプルな自己愛の回復ワークの実践は、ひとつのベースとなっていたのではないかと思う。
母親としての後ろめたさ
ちなみに、先述した「自分を褒めなさい」と伝えてくれたカウンセラーさんからは、「生まれたばかりの子どもがいるならば、いまは母親として子育てを最優先にしたほうがいいのでは? 」ともアドバイスされていた。自分のことで悩んでいないで、のニュアンスだ。
有料セッションなのだし「クライアントが悩んでいること自体を否定しないでくれよ(プロとして)」とは思ったが、確かに差し迫った精神状態というわけでもないし、具体的な問題が発生しているわけでもない。60代男性個人の一般的な意見として、そのようなアドバイスが出るのは理解できる。もし周囲の大人たちに相談したとしても、そのような答えが返ってくるだろうことが想像できた。
ただ、私の心はその言葉に強く抗っていた。
子どもとの関係を大切に考えるからこそ、「本当の私の姿で向き合いたい」「子どもが物心つく前に自分の内面に決着をつけたい」という思いがあったからだ。
しかし同時に、カウンセラーさんに指摘されたように「母親として」の後ろめたさも、どこかで存在していた状態でもあった。
そんな私にはまた、天からわかりやすく「答え」のようなものが降ってきたのだ。
胎内記憶を持つ子どもからの言葉
カウンセラーさんに「子育てを最優先にすべきでは?」と言われ、その言葉が棘のように心に刺さっていた、ちょうど翌日のこと。
地元で「胎内記憶」の第一人者である池川明先生の講演会が行われており、それにたまたま参加していたのだ。
池川先生の胎内記憶の研究によると、胎内記憶を持つ子どもたちが話す「自分たちの生まれてきた意味」は、だいたい共通しているらしく、
1)お母さんを幸せにする
2)自分が好きなことをする
3)結果的にそれが人の役に立つ
のステップだという。
さらに、1)が完了しないと、なかなか 2)に移行していけないとのこと。講演会では胎内記憶を持つ子どもたちも登壇してくれていて、先生の論を支持していた。
たぶん、私の魂がいま浄化を進めたがっていた理由はこれだと思った。息子がこの世界に生まれた意味を果たしてもらうためには、大前提で「私が幸せでないといけない」ということ。息子がまず「私を幸せにする」という願いを持って生まれてきてくれていたとしたら、私はその願いをありがたくしっかり受けとりたい。その上で、息子にはできれば第一段階にそんなに時間をかけずに、早く第二段階に行ってもらえたらいいなと思う。
そして、講演会の最後。会場からの「子育て中の母親へのアドバイスをください」との質問に対し、宇宙の記憶を持つ小学六年生のハルくんが伝えてくれた言葉が、さらに私の心に光を差してくれた。
「それはもう、一言です。お母さん、自分を愛してください」
会場は大きな拍手。私は息子を抱っこしながら、心が震えて、涙が止まらなかった。小学六年生の一言にこんなに泣かされるとは…。
それは、当時の私が悩んでいたことに対しての、明確な「答え」だと思えた。
おかげで、そのあとの私は「母親なのに」という余計な後ろめたさを抱くことなく、はっきりと自信を持って、自己愛の回復に対峙することができた。
天からのエール、そして息子からのエールを感じる。言葉は話せなくても、彼はもうすでに大きく私を助けてくれているのだろう。
いずれ彼が胎内記憶を話してくれる時を、楽しみに待とう。
その時には、きっと私のことが大好きな私でいようと思う。
***