【第3回 セルミジ】ファッション・絵画や歴史と繋がるクラシック音楽
シリーズ3回目、お待たせしました。今回は12月なのでクリスマスにちなんだお誘いです。 突然ですが皆さん、日本での初めてのクリスマスって、いつだか知っていますか?
答えは1552年といわれています。西洋音楽史では後期ルネサンスと分類されている頃で、バッハやヘンデル、ラモーなどが活躍したバロック時代の直前あたり。今回ご紹介するセルミジは、宗教音楽やシャンソンを多く作曲した、当時を代表する音楽家です。
まずはじめに、1530年頃のセルミジ作曲『Tant que vivray(私が生きているかぎり)』をどうぞ。
撮影場所になっているのは、同じ頃に建てられたフォンテーヌブロー宮殿(フランソワ1世の回廊/1528年頃)です。
楽器も曲の時代に合わせてリュートや5弦のヴィオローネなどが用いられ、まるごと当時の雰囲気を垣間見ることができますね。
この曲はいろいろな人の手によって編曲され、様々な楽器でも演奏され、瞬く間に大流行したんだそうですよ。
貴族たちが楽しむ音楽(世俗曲)の中でもフランス語のものはシャンソンといわれ、セルミジは酒の歌や失恋のシャンソンをたくさん作っていたそうです。シャンソン、現代のおしゃれフランス音楽だけを指すわけじゃなかったんですね、歴史を感じます……!
それにしても、500年前の曲も歌があると不思議と古くないというか、ポップス的なメロディアスさがあってキャッチーですよね。実はこれ、時代の大きな転換期でもあったんです。
マルチでボーダレスかつ、海外の流行にも敏感なインフルエンサー
このキャッチーさは、当時イタリアで流行していた主旋律を引き立てる(今で言うと歌メロとコードのような)作曲様式を取り入れたことからきています。(詳しくは割愛しますが興味のある方は『フロットーラ』で検索してみてください)
このイタリア流行音楽を意欲的に取り入れ、フランスに広めた一人がセルミジと言われています。すごくないですか。これはもう、フランスのキャッチーなおしゃれシャンソン生みの親といっても過言ではないのでは!
(この直後から流行の最先端イタリアでは別の音楽が流行りだすのですが(笑)、それはまた機会があれば)
セルミジは王に仕え、王立礼拝堂の楽長として務め、その上シャンソンもという、マルチでボーダレスな音楽家でした。海外の最先端に敏感で、新しいことにチャレンジすることに意欲的で、しかも流行らせる影響力もあったというのですから、間違いなくインフルエンサーですね!
ちなみにちょうどこの頃、パリには音楽出版業界に革命を起こしたアテニャンという人物がいました。彼の印刷方法によって楽譜が早く、多く刷れるようになったことも、セルミジの音楽が流行した理由のひとつといえそうです。
アテニャンは編曲もしていました。セルミジのミサ曲とアテニャンによるオルガン編曲版をどうぞ。
でも正直、セルミジは第1回のショパンや第2回のアンダーソンのようにはメジャーな存在ではないのも確かで、ルネサンス……1500年頃、ってやっぱり遠くありませんか?
もう少し時代の解像度を上げるヒントをプラスしていきたいと思います。
キリスト教で繋がるパリと日本
そこで登場するのがこの人物です。セルミジがマルチに活躍していた頃のパリには、もうひとり、キリスト教といえばこの人! という人物が暮らしていました。日本人で彼を知らない人はいないと言ってもいいでしょう、その名はフランシスコ・ザビエル。
ザビエルが聖職者になることを決意した地は、フランスだったのです。
1525年~パリの大学に在学中、ザビエルは友人らと神への忠誠を誓います。若くして母と妹を立て続けに亡くしたことや、止まない戦争で傷を負った友人のことなども影響したでしょうか。彼は聖職者の道を選び、1534年、『イエズス会』が誕生。モンマルトルの誓いとも呼ばれています。
そのモンマルトルとパリは近く、ザビエルの通っていた大学もパリでした。パリを中心に音楽を作り伝えていたセルミジとも面識があったかもしれません。少なくともザビエルの耳には、古くからの聖歌などと共にいつでもセルミジの音楽が聴こえていたでしょう。
ザビエルはその後、海を渡り1549年に日本に上陸。冒頭でお話した日本で初めての(記録上の)クリスマスはこの3年後の山口県での記録です。
フランスを遠く離れた日本でも各地で争いが絶えない時代でした。1551年に山口での活動を許されたザビエルでしたが、束の間の山口不在の時期に当主の大内義隆が実子共々滅ぼされてしまうという事態(大寧寺の変)に見舞われてしまいます。戦国時代の日本にあってザビエルにとって幸運だったのは、義隆に代わって山口を治めることになった大内義長がキリスト教を締め出さなかったこと。翌1552年に日本でのクリスマスを正式に祝うことができたのでした。
ちょっと年代が不明瞭なのですが、ザビエルも聴いていたかもしれないセルミジのクリスマスソングをぜひ。セルミジと知らずに耳にしたことがあるかもしれませんよ。
ファッションの流行もイタリアやスペインなどから
セルミジがイタリアの音楽を取り入れた途端、イタリアでは別の音楽が流行り出す……。こういったところからも感じられるように、当時は絵画、彫刻、音楽、服飾など、どれをとってもイタリアをはじめとした他国の文化が王侯貴族の流行最先端だったようです。
女性も男性も、スラッシュと呼ばれる裂け目から下の布を見せる装飾が多く見られたり、大きなパフスリーブや毛皮などが特徴です。前世紀から男性定番のプールポワンという胴衣は胸を張ったような綿入りで、体を堂々と大きく見せ、寒さと攻撃からの防御も兼ねていました。元々は鎧の下に着るものだったといいますから、冬の厳しいヨーロッパの戦国の世らしい合理的ファッションです。
こちらはセルミジの動画に出てきたフォンテーヌブロー宮殿とも縁深い、当時のフランス国王フランソワ1世の肖像画です。胸の中心や袖から出ている白い膨らみがスラッシュの装飾です。
スラッシュを含め、縦のラインを強調する模様やデザインも流行でした。
それと、絵を見ると、ウイッグ(かつら)がありませんね。当時、既にウイッグは存在していましたが、国や時期によって流行ったり流行らなかったりしていたそうです。材料となる毛髪や職人の数が安定していなかったという面もありました。この頃は帽子やヘアピース(部分的な付け毛)が主流だったようです。
かつらといえば。ザビエルはカッパのようなヘアスタイルで、そのインパクトも強いかと思います。あれはてっぺんだけハゲてしまったというわけではなく、聖職者独特の剃髪スタイルで、キリストが十字架にかけられた時の茨の冠を模したもの、ともいわれています。(諸説あるのでご興味あれば『トンスラ』でLet’s Google!)
実はキリスト教のこのスタイルや、頭髪に対する考え方がかつらの流行に少なからず影響を与えていたようなんです。
宗教が音楽に与えた影響は多大ですし、その上ファッション文化までとは、面白いですね。でも一説によると、ザビエルは剃髪をしていなかった? なんて話もあるみたいです。さすが500年前、曖昧!
ザビエルからファッションに視点を戻して、女性はこんな感じ。
男女共に、スクウェアに開いた胸元も特徴的です。余談ですが、キリシタン関係で目にする、ピエロのような白いレースの襟(ラッフル)などもルネサンス時代を代表する服飾デザインですが、こちらは1560~70頃からの流行。かつらもそのあたりから徐々に流行の兆しを見せ始め、パリがファッションの最先端といわれる17世紀へと向かうのです。
おわりに、セルミジが深く関わり、今も安らかに眠るサント・シャペルをご紹介。有名なので写真などで一度は見たことがあるかもしれません。実際に訪れたことがある方もいそうです。私もいつか行ってみたい!
クリスマス音楽の特集は様々なところでしているので、あまり出てこない人を取り上げてみたいなと考えて記事にしましたが、あまり出てこない人だけあって難航しました(笑)でも、おかげでこの時代のことがだいぶ身近になったので、ここに書いたことは探索したことのほんの一部ですが、読んだ方にも後期ルネサンス時代の音楽やセルミジを身近に感じていただけたら幸いです。Merry Christmas!!
(ヘッダー:サントシャペル・パリのFacebookより)