扉が開くのを待っている
関東甲信の梅雨入りが発表された翌日に東京へ行くことになった。元々決まっていた予定だし、梅雨シーズンなのは分かっていたものの、たっぷりの水蒸気をたたえた曇天の下では、駅に向かう足取りも決して軽くはない。
今回の上京は会社の親交を促すイベントで、まあいわゆる飲み会だ。わざわざそのために新幹線に乗ってまで行くのかと驚かれたりもするが、僕の上京理由なんて大概そんなものだ。
今日のためという訳でもないが、最近新調したスニーカーを足に慣らしながら歩く。駐車場からコンコースまでの階段を上り、券売機にカードを差し入れ、切符を手に改札を抜ける。発車30分前だが新幹線ホームには既に当駅始発の車両が構えている。自由席のエリアまで車体の脇を抜けてゆき、まだ扉は開かないのでホームのベンチに一旦腰を下ろす。
フルリモートの仕事環境において、普段画面越しで顔を合わせている人達とリアルで対面する機会は極めて少ない。自ら赴いていかなければそのシーンを創ることはできないのだ。そして人と人の本当の信頼関係は同じ空間と時間を共有することで初めて紡がれる。これは実際にフルリモートで仕事をするようになって僕自身が実感したことだ。
長年、会社員として勤めてきた。出勤は当然で在宅勤務なんてほんの一部、何らかの事情を抱えた社員にしか許されていなかった。憂鬱な通勤時間。いかにして地下鉄の座席をナチュラルにゲットできるかに神経を尖らせて過ごしていた。駅や街を行き交う無数の人々も、同じ思いを抱えて歩いているのだ――恐らく。
僕が東京を離れて数年後、コロナの襲来と共にリモート勤務は珍しいものではなくなった。時代は変わった。おかげで、なのか、たまたまタイミングがそうだっただけかもしれないが、ともあれ僕も地方に居ながらにして東京の会社で仕事できる状況に恵まれた。従来、東京に一極集中していたマーケティングリサーチの仕事さえも、地方に開かれたものになった。
出社が必ずしも会社員に必須ではないこの時代だからこそ、対面で同じ職場仲間と会うことに一定の価値があるとも言える。
僕の足取りを重くさせているのは梅雨空だけではない。ここ暫く手の痺れを訴えていた妻が、2週間ほど前に診察を受け、厄介な手の病気である可能性を告げられた。手術になる可能性が高い。完治するかは分からない。まずは安静にすること。
最近はペットボトルよりも重いものが持てなくなり、両の手に湿布とサポーターをして、好きなイラストも描けないまま過ごしている。料理が難しいので宅食を手配し、その他の家事も僕が半分担当している状況だ。そんな状態の妻を置いて、1泊2日の小旅行をのほほんと楽しめるほど僕はお気楽な神経を持ち合わせていない。
仕事と家庭。リアルと非リアル。自分と他人。理想と現実。理解と共感。シンパシー。エンパシー。カンバセーション。コミュニケーション。
言葉は溢れるものの、一向に形をなさない。
どれもが間違いで、どれもが正解だ。
新幹線の行き先を告げる構内放送の声がホームに響く。僕の目の前では、東京を真っ直ぐに狙う弾丸のような銀の車体が沈黙している。
僕は新幹線の扉が開くのを、待っている。
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