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「アンナ ディレクターズカット版」 - 砂の城が美しく崩れていく静寂の物語

★★★★+

監督の意に反した編集がされたと言って、制作側のことが話題(問題?)になってはいましたが、他人の人生を盗んだ女の物語という設定は純粋に面白そうだと思いましたし、逆に争いになるほどの監督の思い入れに興味を抱き、あちこちで良い評判も見かけたのでディレクターズカット版を観ました。詩的で、静かなピアノのよく似合う作品だと思います。事件は起こるのですが、ずっと静寂の中にいるような気分。昔、日本のドラマの「白夜行」を観たときに感じた印象に近いものがありました。傍観者のような気分でありながら、不思議な共感に引っ張られる感覚。

主人公のイ・ユミ(ペ・スジ)は、市場でテーラーを営む父親と耳が聞こえない母親の間に生まれた一人娘。幼い頃に父のテーラーを訪れたイギリス人夫婦の妻からピアノや英語、そしてポーカーフェイスを教わります。頭の良いユミは呑み込みが早くなんでも上手にこなすようになりますが、同時に強い欲望も持った少女に育っていくように。

高校時代も成績はトップクラスだったユミですが、学校の教師と恋愛していることがバレて強制転校処分を受けます。相手の教師は保身に走ってユミをあっさりと切り捨て、ユミはソウルの下宿に逃げていきますが結局は大学受験も失敗。ところが貧しい家庭でありながらユミが望む習い事をさせ、受験も全力でサポートしてくれている両親に事実を告げることができず、大学に合格したと嘘をついてしまうのです。

実際に合格したフリをして大学に出入りするユミ。サークルに入ったり恋人までできて、すっかり嘘が真実のようになっていきます。ですがその恋人に自分が偽の大学生であることが知られ、結局は別れることに。しかも大切な父が同じタイミングで亡くなり、母は認知症にかかっている状況。片っ端からアルバイトをし生計を立てるユミでしたが、ある日見かけたギャラリーの仕事に応募したことで新たな出会いが訪れます。そのギャラリーの館長の娘であり理事を務めるイ・ヒョンジュ(チョン・ウンチェ)は外国に留学して美術を学んで学位を取得し、お金に困らず高級品に身を包んで気ままに贅沢を楽しむ人生を送っていました。

数年後、紆余曲折を経てギャラリーを飛び出したユミですが、偽の学生時代に出会った知人の記者を通じて仕事を紹介された彼女は、さらに大きな嘘へと踏み出してゆくのです…。

映画のような空気の中を進む全8話。ユミ(アンナ)という女性の半生を怒涛でありながら淡々と描いているのですが、この独特のトーンをコントロールするのがまさにユミのキャラクター。こんなにも抑えた表現の中でユミの複雑な内面と外面のバランスを演じるペ・スジという女優の力を見た気がしました。自己顕示欲を隠さなかった幼少期から、まだ自分の嘘に怯えてもいた大学時代、そしていつしか完璧な嘘で自分を作り上げられるように。ですがユミは常にどこか、その嘘が暴かれても気にしないような雰囲気を纏って見えました。もちろん、彼女の真実を知る相手が現れると必死で隠そうともするのですが、彼女にとって嘘をつくことはもはや出かけるときに靴を履くくらい自然なこと。自分が思う自分のあるべき姿を作るためにただただ必要なもの。そこに深い悪意は感じられないというか、だからこそ設定だけ見れば悪女のようですが、ひとりの人間としてのユミはごくごく平凡に思えるのです。親の前では甘ったれな一人娘だし、恋をすれば普通の女の子。横暴をはたらく人に対しては嫌悪感を抱く、本当に標準的な人間。

嘘は結局バレていくものです。最終的には砂の城が崩れるように、花火が弾けて落ちていくように、終わりを迎えるユミの偽りの人生。ですが全てを失ったようで、ようやく不要な嘘から解放されたようでもあるユミは変わらず淡々としていて、やはり彼女にとって嘘はそんなに大きな問題ではないのだなという感慨を得ました。大切なものはとっくになくなっていた彼女にとって、改めて何かを失うわけではなかったのかもしれません。

本当に嵐のような展開なのに、ずっと台風の目の中にいるようで、絵も音もとにかくひとつひとつのシーンが美しい作品でした。ペ・スジは飛び抜けて美人ですが、非現実的なわけではなく少女の気配も残していて、ああ、これがこの作品のトーンなんだなと思います。やはり全てにこだわりが感じられるので、不本意な編集は監督として許せないものだったのでしょう(監督の意図を無視したとされる6話バージョンは未見ですが)。物語も同じく美しく、まったくもってハッピーエンドではないでしょうが観終わって残る感覚は何故か悲哀もなく、とても爽やかでした。(出来事はたくさんあるのですが)大きな波がなくとも深く滲む印象を残す、休日にひとり美術館を歩くような一本です。


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喜怒哀楽ドラマ沼暮らし


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